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2020に伝えたい1964


隣国の生の感情を初めて知った大会(1988年ソウル大会)《2020に伝えたい1964》【エクストラ・延長戦】


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)

〔始めに〕
先達てお知らせさせて頂きましたが、東京オリンピック開催延期に伴い、本連載をエクストラ(延長戦の意)版として、1964年の東京オリンピック以降の各大会の想い出を綴っていくことになりました。どこかで、読者各位の記憶に在る大会に出会えることでしょう。どうぞ、お楽しみに!

 
 
元号では、昭和最後の夏季オリンピックと為った第24回オリンピック・ソウル大会は、1988年9月17日に開幕した。23競技237種目と一気に拡張したこの大会は、オリンピックというものが或る意味で、新しい時代への扉が解き放たれた大会といえるだろう。
 
1988(昭和63)年、私は29歳に為っていた。このソウル大会で初めて、自分より歳下の主将(柔道・斉藤仁選手27歳)が出現したことで、個人的にも時代が動いた感じがしてならなかった。
それは、これから先のオリンピックは、選手目線を離れてOB目線で観ることになるだろうと痛感したからだ。
大好きなオリンピックから、少しずつ置いて行かれる感じがして寂しかった。
 
寂しかったのはそれだけではない。
このオリンピック・ソウル大会は、私にとって何故か、記憶が薄い大会であったからだ。
 
また、最後と為ったのは元号だけでなく、ソビエト連邦を始めとする社会主義諸国が、『ステート・アマチュア』と呼ばれる国家お抱え選手団で参加した最後のオリンピックと成った。歴史的には、翌年にベルリンの壁が崩壊し、東ヨーロッパの社会主義体制が次々と自由主義陣営に加わる契機となった時代だ。冷戦体制最後の大会でもあったのだ。
実際、スポーツ最強国であるソビエト連邦が、その名称で参加した最後の大会となってしまった。
日本選手団にとっての、最大の目標の倒壊は、何とも寂しいものだった。
 
それでも、オリンピック・ソウル大会は、諸々の問題で続いた不参加騒動が一先ず終結し、1972年のミュンヘン大会以来、実に16年振りの全世界的規模の大会となった。
それでも、IOC加盟国の中でただ一ヶ国、参加を見合わせた国が有った。開催国・大韓民国と唯一陸地で国境を接する北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)だ。
その背景には、1983年の『ラングーン事件』や1987年の『大韓航空機爆破事件』があり、その首謀は北朝鮮だったと言われているからだ。今日では、オリンピック・ソウル大会を南北の共催で行いたかったとの意向が働いた様だ。結局のところ、共催が叶わぬと悟った北朝鮮指導者が暴走し、今度は反対にソウル大会を開催させないように仕組んだものだった。
東アジアでは、これは現代でもそうだが、国家分断が続いている証拠となってしっまたのだ。
 
32年経った現在、オリンピック・ソウル大会の記憶は、意外なほど残っていない。それは、たった一人に選手が起こしたある事件によるものだ。
その事件とは、カナダのベン・ジョンソン選手が起こしたドーピング違反だ。この大会は、日本と同時刻のソウルでの開催なのに、各競技の決勝はアメリカのゴールデンタイムに合わせて行われた。前回のロスアンゼルス大会に続き、アメリカの巨大資本が、オリンピックに影響を与えていたからだ。
土曜日の正午過ぎに行なわれた、陸上男子100m決勝。人類初の9.8を切るタイム(9.79秒)で一着入線したのは、ベン・ジョンソン選手だった。私が驚いたのは、そのタイムだけではなかった。スタート位置に付いたベン・ジョンソン選手が、およそ陸上競技の選手とは思えない体格だったことだ。
彼の身長は178cmで、長身のカール・ルイス選手に比べ10cm程度低かった。それでも、ラグビー選手を思わせる胸板の厚さと首の太さは、注目に値するものだった。肩から腕の盛り上がりは、当時現役だった名横綱・千代の富士関を彷彿させるほどだった。
御存知の方も多いと思うが、ベン・ジョンソン選手は、表彰式で金メダルを授与された直後に禁止薬物使用が発見され、授与されたばかりの金メダルを剥奪された。出した記録が、信じられない領域の世界新記録だったので、世界中をそれまでに経験したことが無い脱力感が覆った。
私も虚脱していたが、決勝スタート直前に聞いたNHKの羽佐間正雄アナウンサーが発した、
「ベン・ジョンソン、筋肉の塊」
の言葉が、頭の中をリフレインしていた。よって、騒動から一晩経ったら、どこか想定の範囲内だったと感じるようになっていた。それ程までに、彼の肉体は異様だった。
 
それより私にとって疑問だったのは、女子の同種目でこれまた驚異的な世界記録を叩き出していたフローレンス・ジョイナー選手のことだった。彼女もまた、女子陸上選手の体格とはとても思えない、丁度ベン・ジョンソン選手を見た時と同じ印象だったからだ。
「こりゃ、ジョイナーも剥奪だな」
私の周りでは、そんな雰囲気で一致していた。
しかし彼女は、どういう訳か難を逃れた。但し1998年、40歳を前にして彼女は急逝してしまった。疑惑に対する真実を語らず、何のコメントも残していない。
残っているのは、100m《10秒49》、200m《21秒34》という世界記録だけだ。
この所記録は、32年経った現在も破られてはいない。そればかりか、その記録に肉薄することも無い。これは何おか況や(なにおかいわんや)だと、私は感じてならない。
 
オリンピック・ソウル大会が、今一つ盛り上がらなかった印象が残っているのは、主要競技の陸上と水泳で、開催国・韓国が振るわなかったことだ。両競技共に韓国選手は、メダルを獲得出来なかった。
メインスタジアムやメインプールに、開催国の国旗が掲揚されなかったのは、この大会が初めてだった。当然の結果として、現地の盛り上がりも欠けたものだった。
日本選手団だって、大差はなかった。一矢を報(むく)いたのは、水泳の鈴木大地(前・スポーツ庁長官)選手だった。100m背泳ぎで、56年振りに日本に金メダルをもたらした。
印象に残っているのは、レース前は不愛想だった鈴木大地選手が、金メダル贈呈者が56年前のロスアンゼルス大会で日本人初の背泳ぎ金メダリストとなった、清川正二さんだったことだ。清川さんを私が特に強い印象を持っていたのは、彼の経歴に為るものだった。
ソウル大会当時、日本人で初のIOC委員で副会長も務めた清川さんは、名古屋大学予科(当時・名古屋高等商業学校)から東京商科大学(現・一橋大学)を卒業し、総合商社の兼松江商(現・兼松)に入社し社長にまで登り詰めた、文武両道を絵に描いたような方だったからだ。
現役中は生意気な態度の鈴木大地選手だったが、清川正二さんから金メダルを授与され何事か話し掛けられた際は、もの凄く恐縮した態度に見えたものだ。多分、清川さんから、
「大地くん、有難う。私以来の金メダルだよ」
とでも、声を掛けられたのだろう。
 
オリンピック・ソウル大会の競泳は、アメリカのスーパースター、マット・ビオンディ選手のオリンピックデビューが有った。ただ、私的には、ロスアンゼルス大会に続き出場した西ドイツのミハエル・グロス選手の豪快な泳ぎと、前回獲得し損ねた200mバタフライの金メダルを圧倒的な強さで勝ち取ったシーンが印象に残っている。
 
このオリンピック・ソウル大会で、日本選手団が獲得出来た金メダルは僅か4個だった。合計でも14個だった。1964年の東京大会の金メダル数(16個)にすら届かない数字だった。日本中に、
「何やってんだ!」
の、空気が充満した。
実際、私が感じたのは、不甲斐なさより出場選手達の悔しがり方が足りないというか、覇気の無さだった。どこか、義務感でオリンピックに出ているような感じだった。これでは、世界で勝負する姿勢とはいえなかった。
 
これは後に、当人の与り知らないところで広がってしまった記憶だが、レスリングで金メダルと為った小林孝至(たかし)選手の話題となると、圧倒的強さで優勝したことよりも、帰国後に起こした事件(金メダル置忘れ)の方が先に出てしまうことだ。
この様に、この時代から例えアマチュアであってもアスリートにバラエティ性が求められる様になったのだ。それは同時に、オリンピアンのプライベートも公に晒されることとなる先駆けでもあった。
 
そんな日本選手団の中でただ一人、昔ながらのアスリートの体面を保ったのが、この大会で日本選手団の主将を務めた柔道の斉藤仁選手だった。
2015年に癌のため惜しくも亡くなった斉藤選手だが、同じくオリンピック・ロスアンゼルス大会で金メダリストとなった山下泰裕選手とは、史上最大のライバルであり、史上最強のコンビであった。
山下選手には僅差ながら遂に勝利することは出来なかった斉藤選手は、度重なる大怪我を克服し、ソウル大会が開催される1988年4月の全日本柔道選手権で優勝する。その時のコメントは、
「やっと富士山に登頂することが出来ました。これで再び、エベレストに臨みます」
と、いうものだった。世界チャンピオンには為れても、日本一になかなか為れないとの陰口に対するものだった。
 
ソウル大会の直前、怪我が癒えたといっても完治していなかった斉藤選手は、ソウル大会直前の夏に合宿に入っていた。その模様が、テレビで報道された。そこには、古傷の膝にテーピングをグルグル巻きにした上で、上半身でランニングをしている斉藤仁選手が映し出されていた。
私は、汗だくになりながら練習する斉藤選手の、まるで岩の様な体躯を見て金メダルは確実と思っていた。
 
ところがだ。柔道競技が始まり軽量クラスから試合が始まると様相が一変した。
御家芸ともいえる柔道の軽量級トーナメントで、日本の選手達が次々と姿を消して行ってしまったからだ。それも、明確な一本負けではなく判定、それも大きく疑惑の残る判定での敗戦だった。その上、判定にはホームタウンディシジョンというか、“反日本”の会場内の雰囲気が色濃く出ている感じがしたものだった。
 
お恥ずかしい話ではあるが、その時点で29歳と為っていた私は、柔道会場の日本に対するアンチな声援を見る迄、韓国の生の感情を知らなかったのだ。それより、これは自分勝手な思いだが、私が韓国を隣人として親しみを感じていたことが、現実的では無いことを知ったといったところだろうか。
 
斉藤仁選手は、柔道競技の最終日に登場した。
御家芸の柔道で、最重量級に至る迄一つの金メダルを獲ることが出来ていなかった日本柔道選手団に対し、日本国内では不満というか情けなさが充満していた。しかも、斉藤選手が準決勝で当たることになっていた韓国の選手は、対戦時に斉藤選手に大怪我を負わせ棄権させた選手だった。実際の雰囲気は、不満というより不安だったのかも知れない。
岩の様に重々しく鍛え上げて来た斉藤選手は、猛烈なブーイングの中を登場した。トーナメントの序盤は、順当に一本勝ちを重ねた。
そして準決勝。逃げ回る韓国人選手に対を、斉藤選手は強く睨み付け、両腕を広げると、
「どうした。どこからで掛かって来い」
と、言いたげな行動に出た。これは、対戦している相手だけではなく、満員となった場内の韓国人観衆に対してでもあった。そしてまた、ここ迄日本選手に対して不利な判定を下し続けていた、審判に宛ててのアピールでもあった。
遂に審判は、逃げ回ってマトモに闘おうとしない韓国選手に対し警告を下した。それでも逃げ続ける韓国選手は、仕舞には度重なる警告で判定負けとなった。場内は、思っていた程の不満は感じなかった。それより、自国選手の余りの不甲斐なさにほとほと呆れていたように感じられた。
その証拠に、決勝戦の舞台に上がってきた斉藤選手に対し韓国の観衆は、対する東ドイツ選手の何倍もの声援を送った。
無事に金メダルを獲得し、日本の御家芸の体面を保った形の斉藤仁選手は、表彰式の後、涙ながらに、
「これでやっと日本に帰ることが出来ます」
と、コメントした。緊張というより、悲壮感から解き放たれた本恵だったろう。
 
突然だが、スリナムと聞いて地球儀の何処に位置するか御存知の方は少ないことだろう。南米に在る旧『オランダ領ギアナ』と呼ばれていた1975年に独立した新しい国だ。北は大西洋に面し、東はフランス領ギアナ、南はブラジル、西はガイアナという場所に位置する人口60万人位の国だ。
 
そんな小国の名前を何故私が覚えているのかというと、一人のヒーローがこのオリンピック・ソウル大会で誕生していたからだ。
その青年の名は、アンソニー・ネスティ。南米選手が珍しかった競泳の選手だ。
しかし、アンソニー・ネスティ選手は、ただの競泳選手ではなかった。男子競泳で初の黒人金メダリストとなったからだ。
しかも、その金メダルがただの金メダルでは無かったのだ。ネスティ選手が獲得した金メダルは、100mバタフライでのものだったのだ。この、オリンピック・ソウル大会の100mバタフライは、アメリカのマット・ビオンディ選手や英国のアンディ・ジェイムソン選手、そして西ドイツのアルバトロス、ミハエル・グロス選手が出場する激戦だったのだ。
 
アンソニー・ネスティ選手は、その激戦をタッチの差で金メダルを獲得した。銀メダルのビオンディ選手との差は、僅か100分の1秒だった。
私はその快挙に驚くと同時に、仕舞っていた地図帳を探した。スリナムの場所が解らなかったからだ。もっとも、スリナムの国名を聞き、意識する様になったのもその時が初めてだったのだ。
アンソニー・ネスティ選手の功績は、少なくとも、スリナムの国名を世界中に紹介したことでもあった。
 
こんな、大会自体の印象が薄く、日韓の関係が詳(つまび)らかに為ったオリンピック・ソウル大会。
実は、大会が始まる前に不穏な動きが有った。
それは、大会前の記録報道で『日本の全金メダル』とういう特集が組まれた際のことだった。日本の金メダルの中には、1936年のオリンピック・ベルリン大会のマラソンで、当時、日本統治下だった韓国出身の孫基偵(ソン・ギジョン)選手が獲得した金メダルも含まれていたからだ。各国のマスメディアは、一斉に反発した。
この問題は、ベルリン大会当時から有って、ソウルの新聞記者が日本の警察に捕まっていた(孫選手の写真で、ユニフォームの日の丸を消した事件)。
また、ベルリンのスタジアムに在ったレリーフの刻字を、『Japan』から『Korea』に書き直した韓国人(実際は、北朝鮮国民だった)が報告されたりしていた。
 
テレビのインタビューに答えた孫基偵さんは、
「私が頑張って獲得したベルリン大会の金メダルは、韓国と日本、双方の国のものです」
と、穏やかに語って下さった。
 
オリンピック・ソウル大会の開会式。注目の聖火の最終として、白いランニング姿のソン・ギジョンさんが、両腕を大きく振りながら跳び撥ねる様にスタジアムに現れた。
ランニングの胸には、大きな大韓民国旗が在った。
場内は、割れんばかりの大歓声だった。
 
テレビを通じてその光景を見た私は、
「ベルリン大会の金メダルは、日本でも韓国のものでも無い。それは間違いなく、ソン・ギジョンさんのものだ」
と、感じ入っていた。
 
 
 
 
《以下、次号》

❏ライタープロフィール
山田将治(Shoji Thx Yamada)(READING LIFE公認ライター)

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2020-11-02 | Posted in 2020に伝えたい1964

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