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2020に伝えたい1964


それはまさに、神様がくれたメダルだった(2008年北京大会)《2020に伝えたい1964【エクストラ・延長戦】》


2021/03/29/公開
記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)

〔始めに〕
先達てお知らせさせて頂きましたが、東京オリンピック開催延期に伴い、本連載をエクストラ(延長戦の意)版として、1964年の東京オリンピック以降の各大会の想い出を綴っていくことになりました。どこかで、読者各位の記憶に在る大会に出会えることでしょう。どうぞ、お楽しみに!

 
 
「神様って居るもんだな!」
ゴールの瞬間、私は歓声を上げそう思った。そして、感動して涙した。
陸上男子4X100mリレー決勝直後のことだ。
 
第29回近代オリンピック北京大会は、2008年8月8日、現地時間午後8時に開幕した。『8』を並べたのは、中国における縁起を担いだものだった。
20年振りのアジアでの開催、28年振りの共産主義国家での開催となったこの北京大会は、特に日本に於いて前評判が悪かった。
それは、この29回大会の開催地に、日本の大阪も立候補していたことに始まる。
2001年7月のIOC総会は、29回大会の開催都市を決する投票が行われることに為っていた。日本国内の雰囲気では、1964年以来となる日本での開催を待望する声が高かった。しかし、開催都市決定の投票で、大阪は第一回の投票時に僅か6票しか得票出来ずに敗れ去っていた。日本国内の興奮は、一気に冷めてしまった。
それもそうだろう。1989年に起こった“天安門事件”の衝撃的映像を、多くの日本人は記憶していたからだ。そこで、
「最初の脱落は北京だろう」
と、日本独特の楽観的憶測が飛び交っていたからでもあった。
 
また、この北京大会に対しては、日本の或る中小企業が抗議の意向を示した。その会社は、陸上競技の“砲丸(ほうがん)”を造る会社だ。
陸上競技の砲丸は、公平を期す為主催者が用意するものだ。
その会社が製造する砲丸は、選手たちにはすこぶる評判が良かった。他社の砲丸に比べ、確実に好記録が出るからだ。その砲丸には、日本の職人魂と技が詰まった細かい溝が付けられているのだ。
ところがその会社の経営者が、中国の体制に疑問を持ち、北京大会への納品を拒んだ。大会関係者からは、かなりの批判が飛んできた。参加する選手達は、『もうこれで、北京大会での新記録は無くなった』と、諦め気分になったそうだ。
 
中国を批判したのは、その砲丸製造会社だけではなかった。
北京大会の聖火リレーは、ギリシャ・アテネから二方向に分割されてリレーされた。地球を西回りでやって来るルートの線上に、日本が含まれていた。日本本土内では、東京・札幌・長野といった、夏季・冬季のオリンピック開催地が含まれていた。
ところがだ、事も有ろうに“和を以て貴しと為す”が本分の仏教、それも、信州長野の古刹善光寺が、境内(けいだい)の聖火リレー通過を拒んだのだ。何でも、中国の体制が仏教的ではないというのだ。
当然、大会本部は反発した。しかし、日本国内はむしろ善光寺支持に回っている感じがしたものだった。
 
オリンピックに政治が持ち込まれたモスクワ大会から24年、東西冷戦が終焉してからも13年。
再び、オリンピックに政治的感情が持ち込まれた様で、隣国での開催にもかかわらず、日本国内は今一つ盛り上がっていないのが実情だった。
その上、日本で人気がある映画監督スティーブン・スピルバーグ(『E.T.』『プライベート・ライアン』)が、開会式の演出を依頼されていたにもかかわらず、直前でその職を降りてしまった(代行は同じく映画監督のチャン・イーモー)。理由はやはり、人権問題だった。
これでは、開幕前から印象が悪くなるのも当然だった。
 
2008年8月8日に始まった第29回近代夏季オリンピック・北京大会は、競泳界に健在だったスーパースターと、陸上界の怪物が世に出た大会であった。
 
日本選手団は、金メダル9個を含む合計25個のメダルを獲得し、前回のアテネ大会の勢いを維持し続けた。
但し、いくつかの取りこぼしが目立つ大会でもあった。
特に、今でも本場MLBで活躍する様な選手を揃えた野球は、メダル、それも金メダルを期待されていたにもかかわらず、4位に終わった。原因は、同じ外野手が準決勝・3位決定戦と二戦続けてフライを落球(エラー)したことに尽きる。
プロ選手なので、デーゲームに不慣れだったとか、屋根が無く天然芝のグラウンドが向かなかったとかいわれた。しかし、プロの選手が、落下点に入ったにもかかわらずフライを落球する確率は、1万分の一といわれているのだ。その1万分の一が、連続して起こるとは、予想だにしなかったことだ。
狐に抓まれたとは、このことだと思った。
 
アテネで奪還した、御家芸・体操の団体総合の金メダルも、地元中国に奪還されてしまった。エース冨田選手や主力の鹿島選手が健在で、新たにこの大会デビューとなった内村航平選手が加わったのにだ。
個人総合も、内村選手の銀メダルがやっとだった。
表彰台に乗った内村選手の、隠しきれない悔しそうな表情だけが印象に残った。
 
シンクロナイズドスイミングは、日本の定位置であったデュエット・チームの双方でのメダル獲得が途絶えた。チームでは、5位に終わったからだ。
これも、原因は簡単に見付けられた。
それは、協会本部内の内紛で、長年コーチを務めていた井村雅代さんが更迭されたのだ。更迭されただけならまだしも、井村さんはその後、中国チームのコーチに迎えられたのだ。
日本チームは、その井村コーチ率いる中国チームに、定位置の3位を奪われたのだ。日本国内では、激しい協会バッシングが起こった。
 
最近では日本選手の活躍が目立つ、バドミントン・卓球・アーチェリーといった競技は、メダルに手が届きそうな位置までは進出したが、まだ発展途上だった。
 
そんな中で、フェンシングの太田雄貴選手が、個人フルーレで日本初の銀メダルを獲得し注目された。
これを機に、日本でもフェンシングに注目が集まり、今日の隆盛につながったといっても過言ではあるまい。
 
順当な結果を残した競技も有った。その代表は、柔道とレスリングだ。
柔道では、3連覇を期待されママさん選手に為っていた谷亮子選手が、疑惑の残る判定で銅メダルに終わり、自身が言っていた『田村で金、谷で金、母でも金』の公約を果たせなかったものの、男女で合計4個の金メダルを獲得した。
特に、女子63kg以下級に出場したアテネ大会の同級金メダリスト谷本歩実選手は、古賀稔彦コーチを彷彿とさせる一本勝ちの連続で、見事に連覇を果たした。
日本には、オリンピック連覇を果たした柔道家が5人居る。その中で、二大会連続してオール一本勝ちを果たしたのは、谷本選手だけだ。まさに、古賀コーチの教えそのものだった。
 
レスリングは、男子がフリースタイル軽量級で、2個の銀メダルを獲得した。
一方女子は、アテネ大会と全く同じメンバーで、金2個・銀銅各1個と、これまた全く同じ結果を残した。
二人の金メダリスト、55kg級・吉田沙保里選手と63kg級・伊調馨選手は、これで連覇を果たした。しかしこれは、あくまで道半ばだった。
この快挙によって、日本女子レスリングチームは、一気に世界最強国と認められるに至った。
 
日本選手団で快挙も達成された。
それは、次のロンドン大会でオリンピック競技から外されることが決定していたソフトボール・チームだ。
オリンピック三連覇中の絶対王者アメリカに対し日本チームは、予選では全く手の内を見せず7対0で敗れるという巧みな作戦を用いた。エースの上野由岐子投手を温存したのだ。
その結果、翌日に行われた準決勝(対アメリカに敗戦)・3位決定戦(負けた方が3位)・決勝戦と、エース上野由岐子投手が投げ続けることが出来たのだった。
その投球総数は、実に413球。これにより、絶対王者アメリカの連勝記録を22で止めることが出来た。
決勝戦後、日本・アメリカだけでなく、3位のオーストラリア、4位のカナダ・チームの面々は、ソフトボールのオリンピック復帰を願い、『Back softball!!』と何度も声を上げた。
その声は、今年に延期された東京大会で実現するに至ったのだ。
日本が誇るエース上野由岐子投手は、ソフトボール復活を信じ、今でも現役を続けている(現在38歳)。東京でも、その雄姿はマウンドで観ることが出来るのだ。
ソフトボール・チームの金メダルは、日本のオリンピック史上3個目の団体競技の金メダル(1964年・1976年の女子バレーボール)だった。
 
競泳では、『水の怪物』の異名を取るアメリカ競泳界のスーパースター、マイケル・フェルプス選手が、8種目で金メダルを獲得しそれまでの最多記録(1972年のマーク・スピッツ選手の7個)を更新し観衆の度肝を抜いた。しかもその記録全てが、世界新記録だった。
ただそこには、高速化の為に表面に様々な加工を施した水着(現在は着用禁止)の存在が有った。その水着がどれだけ凄いかというと、伸縮性が異常なので一人で着用することが出来ない程だったのだ。
 
その中で唯一、高速水着を着用せずに女子200m自由形で、世界新記録を叩き出し優勝したイタリアのフェデリカ・ペレグリニ選手は、その美貌も相まって人々の称賛を集めた。
 
一方、日本チームでは、アテネ大会の二冠王・北島康介選手が、この大会も100m・200m平泳ぎの二種目で金メダルを獲得した。記録は勿論、世界新記録だった。
平泳ぎに於いて、二大会連続での二種目制覇は、史上初の快挙だった。
同じアジア人ということで、普段は日本に対する感情が芳しくはない地元・中国でも、北島選手の人気は絶大だった。
また、前回のアテネ大会での『超気持ちいい』に引き続き北島選手は、この大会でも、『何も言えねぇ』と印象に残る発言をした。
水着問題や、マイケル・フェルプス選手の存在は有ったものの、北島選手は間違いなくオリンピック北京大会の主役の一人だった。
北島選手は、4X100mメドレーリレーでも、バタフライの松田丈志選手等と主に、日本男子初の銅メダルを獲得してみせた。
 
そして、陸上競技。
本来は、主役となるべき二人の選手が居た。
一人は、地元中国の男子110mハードル代表・劉翔選手だ。前回のアテネ大会で、アジア初のトラック競技金メダリストとなり『黄金の登り龍』といわれた劉選手は、北京大会でも同種目のスタートライン着いた。
ところが劉選手は、フライング後の2度目のスタートには参加せず棄権してしまった。劉選手は脚を故障していて、とても競技に出られる状態ではなかったのだった。
しかし、中国の観衆は、劉翔選手を擁護せず一斉にバッシングしたのだった。そこには、アテネ大会以降に得た巨額の褒章金に対し、アジア人独特の僻みが出たものと考えられた。
 
もう一人は、北京大会のマラソンで金メダルを獲得した、ケニアのサムエル・ワンジル選手だ。ワンジル選手は、日本の高校に留学し卒業後はそのまま日本の実業団チームに所属していたことから、日本国内では有名だったのだ。
マラソンで金メダルを獲得した時には、まるで日本選手が金メダルに輝いた様な騒ぎだった。
金メダリストに為ったのだから、十分主役であったのは事実だ。ところがだ、ケニアに帰国後、ワンジル選手には数々の不幸が襲ってきたのだ。
それは、オリンピックの報奨金を狙った強盗に襲われたり、交通事故に合ったりしたのだ。
そして、サムエル・ワンジル選手は、2011年5月15日自宅のバルコニーから転落し命を落とした。24歳という、あまりに若すぎる死は、第二の故郷である日本でも報じられた。覚えている方も多いことだろう。
一報では事故死とされたワンジル選手だったが、その後の検視で転落死ではない痕跡が見付かった。
彼の死因は、今もって特定されてはいない。
 
二人に代わり、ジャマイカから新たなスターがその第一歩を踏み出した。その頭抜けた長身選手の名は、ウサイン・ボルト。100m・200m・4x100mリレーの三種目全てで世界新記録をマークして金メダルを獲得した。
その圧倒的速さに、世界の眼は釘付けとなった。そして、8年後のリオデジャネイロ大会まで、それは続いたのだった。
 
そしてもう一つ、本中を歓喜させる瞬間が有った。
男子4X100mリレーで、日本チームが3着で入線したのだ。何しろ、日本のトラック競技でのメダルは、1928年のアムステルダム大会に於ける女子800m走で人見絹枝選手の銀メダルまでさかのぼらなければならないのだ。それは、80年も前のことだ。
この3位入線は、一つの幸運が有った。それは予選でのこと。優勝候補の最有力だったアメリカが、バトンパスをミスし敗退したのだった。また、英国、ナイジェリアといった有力チームも同じだった。そうでもなければ、100mの記録で誰一人として9秒台の記録を持たない日本チームが、いくらバトンパスが巧みとはいっても、メダル争いに食い込める訳が無かったからだ。
 
一走・塚原直貴選手、二走・末續慎吾選手、三走・高平慎士選手と繋がれた日本のバトンは、第4コーナーで待ち構える朝原宜治選手に渡った。
朝原選手は、実力で勝る後続を何とか振り切った。
そして、3着入線を確認すると、朝原選手は手にしていたバトンを空天高く投げ上げた。
朝原宜治選手の伴侶は、1992年のバルセロナ大会シンクロナイズドスイミングで、銅メダル2個を獲得していた奥野史子選手だ。普段の生活で、何度も目にしたメダルだ。これでやっと、連れ合いに並んだ奇跡の瞬間でもあった。
 
テレビで観戦していた私は、まさか自分が生きている内に、日本人が陸上のトラック競技でメダルを獲得すること等、夢にも考えたことが無かった。
その夢が現実となったことで、感情が一気に爆発し、涙がとめどなく流れた。
冒頭の言葉は、そこで思わず発したものだった。
 
このリレー、後日二つの出来事が起こった。
一つ目は、朝原宜治選手が思わず投げてしまったバトンのことだ。
レース後、バトンを探し回ったが見付けることが出来なかったらしい。大会が終わって暫らく経ってから、そのバトンは日本陸上協会に届けられた。どうやら、競技場トラックの側溝に落ちていたらしい。
朝原選手が投げたバトンである証拠は、くっきりと付いた傷で判明したそうだ。
 
もう一つは、同レースで世界新記録を出して1着入線していたジャマイカ・チームの一人に、ドーピング陽性反応が出たのだった。ドーピングは、当然失格だ。
その裁定は裁判までもつれ込み、2018年12月に為って、やっと日本チームの繰り上げが承認された。
北京大会で日本の陸上唯一のメダルは、銀メダルとなった。
このチームはやっと、人見絹枝選手に並んだのだった。
そして朝原宜治選手は、伴侶の奥野選手を超えることが出来たのだった。
 
4か月後にスタートする、オリンピック東京大会の陸上男子4X100mリレー。
今回の日本チームは、100m9秒台が3人も揃っている。
もしかしたら、北京大会以上の結果と為る可能性がある。
 
今から楽しみで仕方がない。
 
 
《以下、次号》
 
 

【訃報】
本文中にも登場した、1992年バルセロナ大会の金メダリスト古賀稔彦さんは、癌の為、3月24日にお亡くなりに為りました
『平成の三四郎』と呼ばれた豪快な一本背負いは、実に見事でした
71kg以下級の選手であるにもかかわらず、体重無差別で争われる全日本選手権に毎年出場し、決勝戦まで進んだことを記憶しています
1992年のバルセロナ大会。大怪我をおしての金メダル獲得、本当に格好良かった
怪我の原因となった練習で、相手を勤めていた後輩の吉田秀彦選手をかばい、
「吉田が責められる事の無い様、何が何でも金メダルを獲る」
と、宣言し達成した姿、実に頼もしかった
その一方で、達筆でも知られていた古賀稔彦選手
その筆跡は、後輩・吉田秀彦氏が開いた私塾『吉田道場』の看板に残っています
 
生前の活躍を思い出すと共に、心から御冥福を御祈り申し上げます

 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治(Shoji Thx Yamada)(READING LIFE公認ライター)

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2021-03-29 | Posted in 2020に伝えたい1964

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