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チーム天狼院

【小説】どんなに彼が臭くても、それでも私は彼のことが好きだった。《川代ノート》


 

記事:川代紗生(天狼院書店スタッフ)
 

*この記事はフィクションです。
 
 
 
恵の彼氏は、臭かった。
 
彼にぎゅっと強く抱きしめられると、脳天をつらぬくような強烈な匂いが恵の鼻腔を刺激した。それは今までに嗅いだことのあるどの匂いとも違っていた。野球部の部室を開けた瞬間のむわっとした生ぬるい空気を濃縮し、それを練りこんだ玉ねぎの芯をぐりぐりと鼻の穴に押し付けられているみたいな匂いがした。暑い夏の日に、ベッドの上で抱き合っていると、恵の部屋の中は酸っぱい匂いで充満した。でも恵は彼とセックスをするのがとても好きだった。二人分の汗の匂いに包まれていると、この世界に自分たちしか存在しないような気がして、彼との行為に思い切り集中することができたからだ。
 
「こう言っちゃなんだけどさ、なんであの人と付き合ってるの?」
 
大学の友人には、度々そう言われた。彼女たちは飲みの席で、必ずさらにこう続けた。恵にはもっといい人いるよ。よりにもよってあんなすごい匂いの人なんかと付き合うことないじゃない? いかにも「あなたを心配している」という表情を浮かべていたが、実際のところ「ものすごい体臭の男を恋人にしている女」に対する優越感を酒の肴にしているのだろうことは、恵には簡単に想像がついた。
 
「だって、かっこいいから」
 
彼について何か言われたとき、恵はそう答えることにしていた。事実、彼はとても綺麗な顔をしていた。背が高く、すらりとした瘦せ型で、鼻が綺麗に尖っていた。無造作に着ている洗いざらしの黒いシャツが、猫背気味のシルエットにとてもよく似合っていた。彼が大学構内のベンチに座って文庫本を読んでいるところを眺めるのが、恵は病的に好きだった。十分近くもずっと彼の姿を観察していたせいで待ち合わせ時間を過ぎてしまい、「こら」と怒られることもしばしばあった。
 
「たしかに、顔はかっこいいけど」と友人たちはいつも言った。それにしても、という意味だということは恵にもよくわかっていた。何しろ彼の匂いは強烈なのだ。ちょっとやそっとで我慢できる程度のものではない。彼が歩くと周りの人間は必ず振り返り、怪訝そうな顔をして彼を避けた。彼と一緒に混雑する電車に乗ると、周囲の人間がさりげなく距離を取るせいで二人の周りには小さな円が出来た。中にはいかにも迷惑そうに、じろじろとこちらを見てくるサラリーマンもいた。
 
実際のところ、恵自身にも、なぜそんな目に合ってまで彼と付き合っているのか、よくわかっていなかった。ただひとつ、強烈に彼に惹かれているのだということだけはたしかだった。
 
おそらく、その「強烈な匂い」というたった一点だけの理由で、彼は大学内で孤立していた。彼はいつも一人で昼食を食べ、一人で図書館に行って本を借り、一人で静かに大学を出て行った。恵と彼が出会ったのは大学のゼミが同じことがきっかけだったが、毎回真面目に授業に出席こそすれ、彼がゼミの飲み会に来ることはただの一度もなかった。でも別にそれを特別寂しいと思っているようでもないように見えた。
 
周りの人間も、彼のことをどこか持て余しているようだった。それなりに分別のある大学生だから、彼のことをいじめたりする人間はいない。周りの人間はあくまでも彼と「対等に」接していた。あるいは「自分は彼と対等に話をしている」という体を保とうと強く意識してコミュニケーションをとっているように見えた。彼がクラスに入ってきたときにはみんな「よう」と明るく挨拶をし、一言、二言、当たり障りのない世間話をした。けれども、誰もそれ以上彼と深い関わりを持とうとはしなかった。彼はいつも決まってドアに一番近い端の席に座り、隣の席に自分のカバンを置いた。彼の隣に誰かが座ることはなかったし、座らせてくれと言う人間もいなかった。
 
端から見れば、彼はただの「マイペースな人間」だった。一人を好み、誰かとつるむのは時間の無駄だと考えているひねくれ気味の青年。くだらない大学生同士のおしゃべりをするくらいなら、一冊でも多く本が読みたい。そういうちょっと斜に構えたところがある人柄に見えた。だから彼が強烈な体臭の持ち主であることは、別に不都合ではないんじゃないかと恵は考えていた。むしろ、関わりたくない人間を自分のゾーンに入れないためのバリアになっているのかもしれないとすら思った。もしも彼が柔軟剤の香りだけを漂わせていたのなら、おそらくものすごくたくさんの女子に言い寄られていただろう。背が高くて、彫刻のように綺麗な顔立ちをした、文学青年。モテないはずがない。けれども、ミーハーな女子がわんさか押し寄せるのを、きっと彼は好まないだろうと恵は推測していた。
 
 
恵が彼と付き合うことになったのは、彼が泣いているところを見かけたことがきっかけだった。サークルの飲み会で遅くなり、深夜に大学の最寄駅前で信号待ちをしていたときのことだ。道路を挟んで向こうの歩道を、大きな紙袋を持って歩いている人影が見えた。すらりとした体躯に、手入れのされていないぼさっとした少し長めの髪。彼だった。猫背気味に丸まった彼のシルエットがぼんやりと浮かんでいた。どこに行くんだろう、と恵は思った。こんな夜中に。ああ、そういえば彼は、大学の近くで一人暮らしをしているんだったっけ、と恵は思い出した。時計は真夜中を過ぎていた。恵は迷った。終電まであと42分。まだ少し、余裕はある。恵は彼を追いかけることにした。ほとんど話したことはなかったけれど、なぜかあのやけに大きな紙袋を持って足早に歩く彼の姿に、妙に興味が湧いたのだ。
 
信号が青に変わるなり、恵は小走りに彼のあとを追った。内心、自分の行動に驚いていた。他人にこれほど強く興味を惹かれたのは初めてだったからだ。どうしてだろう、と恵は彼の背中を追いかけながら思った。アルコールが入って少しテンションが上がっているのかもしれない。ミステリアスな彼の生活を見てみたいという、単純な野次馬根性かもしれない。わからないけれど、とにかく今は彼がどこに行くのか知りたいと思った。
 
彼は大きなヘッドフォンを耳につけて、黙々と歩いていた。駅近くから小道に入り、橋を渡り、ひと気のない川沿いを真っ直ぐに歩く。スマートフォンなどを見る様子はなかった。どうやら行き慣れた場所に向かっているようだった。
 
着いたのは、24時間営業のレトロな寂れたコインランドリーだった。どう見ても繁盛しているようには見えない。なぜわざわざこんなところに来たのだろう? コインランドリーなら駅前の、さっきの信号のすぐ近くにあったはずだ。なのに彼はわざわざ遠くの、この廃れた場所まで歩いてきた。どうして?
 
恵は彼に気がつかれないように、道路脇の電信柱に寄りかかり、スマートフォンをいじるふりをしながら、横目で彼の様子を伺った。彼は紙袋の中から、黒いシャツを取り出した。よく彼が着ているものだろうと恵は思った。彼はしばらくそのシャツを眺めていると、洗濯機の中に放り投げた。彼は一着一着、洗濯機の中に服を投げ入れていった。あれ、と恵は思った。よくよく見ると、彼はまるで叩きつけるように服を投げていた。力を目一杯込めて、服が傷んでしまうんじゃないかというくらいに強く投げつけていた。その力はどんどん強くなっていくように見えた。どうしたんだろう。それは普段の冷静で穏やかな彼からは想像もつかない姿だった。
 
紙袋いっぱいの洋服をすべて洗濯機に叩き入れた彼の肩は上がっていた。はあ、はあ、という呼吸音がこちらまで聞こえてくるようだった。そして彼は洗剤を取り出して、ドバドバと洗濯機に入れた。液体洗剤が大量に洗濯機の中に注ぎ込まれていく。そんなに入れたら、とさすがに言いたくなって、恵は思わず身を乗り出した。そしてふと気がついた。彼は泣いていた。号泣していた。洗剤を注ぎ込む彼の目からは大量の涙が溢れ出ていた。美しい顔をぐしゃぐしゃにして、彼は泣いていた。歪んだ表情は、長めの前髪に隠れてよく見えなかったが、彼の瞳から次から次へと大粒の涙が溢れでているのは、恵がいる場所からも確認できた。
 
恵はその場から動くことができなかった。体が硬直して動かなかった。ただ、どくどくと自分の体の中の何かが強く反応しているのはわかった。それは今までに一度も覚えたことのない感情だった。なに、これ、と恵は小さく呟いた。体の奥の奥の方にある、何かの芯のようなものが、燃えるように熱くなる。全身の血液があらんかぎりの力で循環しているような気がした。恵は内側の火照りをどうすることもできず、中途半端に立ち上がりかけた姿勢のまま、彼が泣いているところを見続けていた。
 
瞬間、ふいにこちらを振り向いた彼と、目が合った。長めの前髪の隙間から、鋭い瞳が覗いていた。その目は赤く染まり、高く尖った鼻からは鼻水が垂れていた。彼は恵の方をじっと見たまま、動かなかった。逃げるでも恥ずかしそうにするでもなく、背中を丸めた姿勢を動かさずに、ただこちらを見つめていた。
 
気づけば、恵は走り出していた。自分の意思とは全く別のところで体が動かされているような気がした。ふと気がつくと、恵の腕の中には、彼が収まっていた。彼を抱きしめると強烈な匂いがしたが、もはや恵には関係がなかった。ただ彼を強く抱きしめることだけを恵は考えていた。広い彼の背中に手を回し、これ以上ないくらい強く、強く抱きしめた。
 
彼は、しばらくただ黙って恵に抱きしめられていたが、ゆるゆると腕を動かして、恵の背中に腕を回した。そして泣いた。それまでよりもずっと激しく、子供が泣くみたいに号泣した。恵は彼の頭を撫で、彼と自分の間に隙間がなくなるように抱き寄せた。
 
どうしてこんなことしてるんだろう、と恵は頭の隅で、どこか冷静に考えていた。恵はどちらかというと淡白な方だったし、恋愛に積極的なタイプでもなかった。言い寄られて付き合ってみたことは何度かあったが、それも長くは続かなかった。
 
にも関わらず、こうして自分の腕の中に閉じ込めている彼に対しては、猛烈に惹かれていた。自分の預かり知らないところで、自分の体が別の誰かに勝手に動かされているような感覚があった。不思議だ、と恵は思った。どうしてこんなにもこの人に惹かれているんだろう。
 
自分の中の何かが満たされていくのを感じていた。彼と抱き合っていると、ひどく安心した。こうして二人で抱き合っているのが本来あるべき姿であって、これまで一人で生きていたことの方がおかしかったのだと思った。自分の体のいちばん奥がずきずきと疼いているのを感じた。自分が自分でなくなったみたいだ、と恵は思った。何が起きているんだろう。ただ、彼が自分の中の何かのスイッチを押してしまったのだということだけはよくわかった。
 
 
それから、恵と彼は自然と付き合うようになった。とくに言葉を交わすことはなく、ただ同じ時間を過ごした。
 
彼と付き合い始めたとき、周りは心底驚いていた。彼はある意味、有名人だったからだ。彼と付き合うことになったと言ったときの友人たちの反応は、同情したような表情を見せるか、何か裏があるんじゃないかと疑りぶかく眉をひそめるか、どちらかだったが、恵にとってはどうでもいいことだった。
 
恵と彼は、たいてい大学の授業の帰り、一緒に帰ってラーメンや定食を食べ、そして恵の部屋で時間を過ごした。彼は大学では寡黙だったが、恵と一緒にいるときはよく話をした。好きな本や映画のこと、社会のこと、最近考えたこと。彼は結論を出すのにひどく時間がかかるタイプのようで、恵と話をしているときでも突然黙り込んで考え出す癖があったが、恵は彼が顎に指を添えてじっと考え込んでいるのを見つめているだけで満足だった。
 
恵の生活は一変した。できるだけ多くの時間を彼のそばで過ごすようになり、よっぽどのことがない限りは飲み会や遊びには顔を出さなくなった。もちろん恵は顰蹙をかっていた。友人だと思っていた人たちが影で恵のことを笑い者にしているのを恵は知っていたし、彼と歩いているときに好奇の目で見られていることにも気がついていた。けれどもどうしてか、彼から離れようとはちっとも思わなかった。おかしいなあ、と恵は思った。自分がこれほど誰かに執着することがあるとは、思わなかった。自分のペースを崩されるのを嫌い、好きなことをして平穏無事に生活をしていたいと思っていた。そんな自分が特定の誰かに合わせるという行動を取っていること自体が不思議だった。何が起きているんだろう、と恵は常に考えていたが、結論は出なかった。
 
彼は、あのコインランドリーで出会ったときのように、ときどき急に泣きじゃくることがあった。同じベッドで眠っていると、恵の胸に顔を埋めて泣く彼の声で目が覚めた。それは本当に幼い子供のようで、恵にはどうすることもできなかった。恵にはただ、安心させるように彼の頭を撫でることしかできなかった。
 
彼が泣く理由を口にすることは一度もなかった。どれだけ激しく泣いていても、翌朝には、いつものように穏やかに笑みを浮かべる冷静な青年がいるだけだった。その泣く瞬間以外には、彼が感情を表に出すことはなかったから、恵はそれがもしかしたら自分の夢なんじゃないかと思うことがよくあった。あのコインランドリーで見た彼の泣き顔も、自分の思い込みなんじゃないか、と。
 
 
 
 
彼が死んだのは、恵と彼が付き合ってから半年後のことだった。一月の年明けで、ひどく冷え込む日だった。
 

恵は厚手のセーターを着込み、急ぎ足でアルバイト先に向かっていた。頭がやけにぼんやりとしていて、何も考えられなかった。ただなんとなく嫌な気持ちのする日だな、と恵は思った。
 
急に、ラインの通知が来た。かじかむ手を擦り合わせ、スマートフォンのロックを外す。ゼミのグループラインだった。ゼミ長からのメッセージには、彼が死んだことが書かれていた。ひゅう、と小さく喉の奥から音がした。恵の足が止まった。後ろを歩いていた人が迷惑そうにこちらを見ていた。どういうことだ、と恵は思った。続々とラインが来た。今、先生から僕の方に連絡がありました。告別式があるそうです。希望者は……。どうやら彼の親が、大学あてに連絡をしたらしかった。事故死、としか書かれていなかった。ゼミ生たちから「えっ」とか「嘘でしょ?」とか「マジで?」とか、驚きのメッセージが続々と流れてきた。
 
嘘でしょ、って、いや、こっちが嘘でしょなんだけど。思いがけず、口から漏れた。どういうことだ。まったく意味がわからなかった。だって彼はつい年末、恵の家に泊まったばかりなのだ。彼は恵の家に入り浸っていて、ほとんどの荷物も恵の家に置いてあったが、お正月は実家に帰省するからと別れたのだ。じゃあ、年が明けたら会おうね。ゼミで会うのが最初かな? 良いお年を。そう言って。今頃は、きっと実家でゆっくりくつろいでいるのだろうと思っていたのに、突然、何?
 
ラインには、次々と彼の死を嘆く言葉が流れてきた。
 
「何これ」
「ショック」
「えってかなんで?」
「もう会えないの?」
「悲しすぎる」
「こんなことって……」
「まだ21なのに」
「あいつがいなくなったとか、マジで信じられん」
「今日オフィスに教授いるって、話聞きに行かん?」
「いこういこう。いけるやついる?」
 
恵には、その言葉たちが、ひどく薄っぺらく思えた。すっと心が冷めていくのを感じていた。目の前をつるりと通り過ぎていくだけだ。誰が。誰が本気で。
 
いや、そんなことはどうでもいい、と恵は頭をふった。事実を確かめなければ。本当に彼は死んだのか。彼はいなくなったのか。来年もよろしくね、と言っていたのは、嘘だったのか。
 
恵は大学に向かった。教授の事務所には恵以外にもゼミ生たちが集まっていた。ハンカチで目と鼻を押さえていて、お互いの肩を抱きしめ合って泣いていた。女子だけでなく、男子も目頭を押さえ、眉間にしわを寄せていた。
 
恵、と一人の男子が気がついて名前を呼んだ。お前、大丈夫か?  あいつと付き合ってたんだろう。何か聞いてる?  私たち、事故死っていうこと以外何も知らなくて。っていうか、きっと今一番辛いの、恵だよね。
 
ゼミ生の中で一番激しく泣いていた女子が、恵の方に寄ってきて、強く抱きしめた。香水の甘い匂いが鼻についた。ひっく、ひっくと肩を大きく動かして号泣していた。恵、大丈夫?  辛いよね、悲しいよね……。彼女が号泣しているのにつられたのか、他のゼミ生たちもまた激しく泣き出した。恵は何もいうことができず、ただ黙って抱きしめられていた。何も反応しない恵を、彼らはあまりの悲しみで動くことができないと思っているようだった。
 
恵はゆっくりと彼女から体を離し、黙ってきた道を戻った。涙は一滴も出なかった。悲しみも何も浮かんでこなかった。感情の揺らぎというものが何もなかった。恵、大丈夫?  一人で帰れる?  いや、そっとしておいてあげよ。そんな声を背に、オフィスを離れた。あ、バイト休みますって連絡しなきゃ、とどこかぼんやりと思った。
 
彼の死の真相をそれ以上確かめようとは思わなかった。不思議なくらい、心が落ち着いていた。冷え切っていると言ってもよかった。恵は彼と彼の死を、驚くほど冷静に見つめていた。
 
恵はそのままいつも通り電車に乗り、いつも通りの道を歩いて帰宅した。ひんやりとした空気が鼻孔を刺して痛かった。けれどもはや、何も気にならなかった。ただ家に帰ることしか考えられなかった。
 
恵はアパートに戻るとベッドに倒れこんだ。相変わらず涙は出なかった。
 
ふいに、シーツからほんのりと酸っぱい匂いがした。あ、と恵は思った。彼の匂いだ。この間、洗ったばかりなのに。彼は匂いを気にして頻繁にシーツを洗っていた。たしか、洗ってから一度しか寝ていない。なのに、このシーツには彼の体臭がついている。酸っぱくて、鼻をつくような汗の匂いがする。
 
恵はふと起き上がった。ぼんやりとした体を動かして、クローゼットの取っ手に手をかける。そしてゆっくりと扉を開けた。シーツとは比べ物にならないくらいの、つんとした匂い。
 
恵は彼の匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。ゴミ箱で放置した腐ったタマネギのような、すっぱい異国のチーズのような、そんな匂いがした。
 
「臭い」
 
恵はつぶやいた。
 
クローゼットを大きく開け、彼が置いていったシャツの脇の部分に顔を埋めて深く深呼吸をした。
 
頭がくらくらするほどの酸っぱい匂いが恵の鼻をくすぐった。
 
「あぁ、臭いなぁ」
 
言った瞬間、鼻の奥がきゅっと縮まっていくのがわかった。匂いのせいではないことは明らかだった。
 
「うう」
 
唸りながら、恵は泣いた。腐ったタマネギの匂いに包まれながら泣いた。
 
顔中の筋肉が鼻に集約されているかのようにぎゅっとこわばって、恵は床に膝をついた。全身の水分が目と鼻に集まってくるのがわかった。彼のシャツがぐしゃぐしゃになっていくのがわかって、恵はあっと声をあげた。彼の匂いが、消えてしまうのは嫌だと思った。でもこれ以上止められなかった。恵はクローゼットにかけられていた彼の服をかたっぱしから引っ張って、思い切り息を吸った。
 
臭かった。たしかに臭かった。これほどの匂いを発する人間に、恵は出会ったことがなかった。でもそれでも恵は彼のことが好きだった。どれほど強い体臭を彼が持っていたとしても、それごと彼のことが大好きだった。
 
恵は服をひたすらに集め、嗅いだ。嗅ぎ続けた。この匂いこそが、彼の証明だったような気がした。
 
その一方で、この匂いこそが、彼を殺したのだということも、恵は直感的にわかっていた。
 
恵、辛いよね。

本当に悲しい。

なんで死んじゃったんだよ、あいつ。

まだ若いのに。

もっともっと、いろんな話がしたかった。
 
恵は大学の事務所で見た、ゼミ生たちの泣く姿を思い出した。
 
いったい、誰が。
 
この中の誰が、本気で彼の死を嘆いているというのだろう。
 
彼らはただ、自分たちの目の前に現れた「死」というものを、一つのコンテンツとして楽しんでいるだけだ。
 
普通の人間には起こらない「身近な人間が若くして死ぬ」というイベントに盛り上がっているようにしか、到底思えなかった。
 
はたから見ればたしかに、彼らは「ゼミ仲間の死に傷つく若者たち」だった。けれども、いったい、あの中の誰が、彼の死を本気で悲しんでいるというのだ。心のそこから寂しいと思っている人間があの中にいるのだろうか? 彼に決して近寄ろうとはせず、強烈な体臭の男だと影で笑っていたやつらのうち一体誰が、本気で悲しんでいるというのだろう?
 
恵は自分の中からふつふつと、静かな怒りが湧いてくるのを感じていた。
 
そして冷静に思った。彼は、ああいう人間に囲まれているのが耐えられなくて、死んだのだ。
 
彼がおそらく自分で死を選んだのだろうということは、恵には直感的にわかっていた。彼は傷ついていた。深く深く傷ついていた。
 
きっと彼は、ずっと幼い頃からああやって扱われることに慣れてしまっていたのだろう。強烈な体臭のせいで、誰も近寄ってこない人生に慣れきっていたのだ。だからこそ彼は、誰にも近寄ろうとはしなかった。迷惑をかけずに生きる癖が身についていた。そうやって静かに穏やかに毎日を生きるのが、もう耐えられなくなってしまったのだろう。
 
あんなやつらに、と恵は思った。怒りに任せて、彼のシャツを強く握りしめた。言葉にならない野太い声が、喉の奥から鳴っているのがわかった。彼はあんな薄っぺらいやつらに殺されたのだ。私がいたのに、彼を救うことができなかった。私がもっと彼と一緒にいれば。彼ともっとずっと……。そうだ、彼はどうして自分に話してくれなかったのだろう。相談してくれていれば。話をもっと聞いていれば……。
 
そこまで考えて、恵はふと、何かの違和感に気がついた。あれ、と恵は思った。何かが、おかしい。
 
恵はぐしゃぐしゃに濡れた彼のシャツを見つめ、彼の匂いを嗅いだ。そしてようやく気がついた。
 
ああ、もしかすると、彼のことを一番傷つけていたのは、まぎれもない、自分ではないのか。
 
手のひらが、細かくふるえていた。
 
彼が好きだった。大好きだった。彼のこの匂いが大好きだった。そしてなぜ自分がこれほどまでに彼に惹かれていたのか、恵はようやく気がついた。
 
恵は、彼の欠損した部分に惹かれていたのだ。
 
強烈なコンプレックスを持っている彼の、傷そのものを恵は愛した。同時に、大きな欠損を持っている彼を受け止められる自分を愛していた。そして自分とは違い、彼のことを受け入れられない浅薄なやつらを見下した。人間の表面的な部分しか見れないやつらだと距離を置いた。彼を愛することができる自分は特別で、彼をただのコンテンツとして面白がっている同級生たちとは違うのだと思おうとした。
 
でも本当は私こそ、そうやって友人のことを見下すための道具として、彼を利用していただけだったのでは?
 
私に友人を見下す資格など、どこにもないのでは?
 
もしかすると、彼を一番苦しめていたのは、そんな私がずっとそばにいることだったのでは?
 
恵は、喉の奥を鋭い刃物で刺されているような気持ちがした。吐きそうだった。どうしたらいいの。彼に、なんて言えば。どうしたら。
 
ふいに、ランドリーで彼と目が合ったときのことを思い出した。
 
彼は泣いていた。目を真っ赤にして号泣していた。そして寂しそうにこちらを見ていた。
 
あのとき湧き上がった、カーッと燃えるあの感情を、恵は思い出した。
 
でも。
 
でも、あのとき感じたあれも、あの熱も、嘘だったというのだろうか。
 
ひどく傷ついたような目で私を見つめた彼を愛おしいと、抱きしめたいと思ったあの感情も、ただのエゴだったのか。
 
恵は彼と過ごした日々を思い出した。大学で待ち合わせたときに本を読んでいる彼の姿を思い出した。好きなことについて語りだすと、つい想いが溢れて口ごもってしまう彼の真剣な顔を思い出した。恵の胸に顔を埋めて泣きじゃくる彼を思い出した。
 
そうだ。
 
そうだ、私は、やっぱり彼のことが好きだった。
 
彼のことを見下していたとしても、自分を高尚な人間だと思い込むための道具に彼を使っていたとしても、それでも、彼に対して感じたあの愛おしいという気持ちは、抱きしめて、甘やかして、彼を自分だけの物にしてしまいたいと思うあの熱は、本物だった。
 
恵は、彼のシャツをもう一度強く抱きしめて、泣いた。クローゼットの中の彼の服を一つ残らずかき集めて、そして強く強く抱きしめて、泣いた。声をあげ、叫ぶように泣いて、自分の鼻に彼の匂いを押し付けた。
 
つんとした、酸っぱい、腐った玉ねぎのような匂いがして、恵の頭はしびれたようにくらくらと揺れた。
 
「ああ、臭い」
 
震えるような自分の声が、部屋の中に静かに響いた。
 
ああ、そうだ。
 
どんなに彼が臭くても、それでも私は彼のことが好きだった。
 
大好きだった。
 
 
 
 
***

❏ライタープロフィール
川代紗生(Kawashiro Saki)

ライター。 天狼院書店スタッフ。ライティング・ゼミ講師。東京都生まれ。早稲田大学卒。全国10店舗に拡大中の次世代型書店『天狼院書店』本部にて、売上戦略管理・企画編集・マーケティング業務を担当。WEB記事「親にまったく反抗したことのない私が、22歳で反抗期になって学んだこと」(累計35万PV)「国際教養学部という階級社会で生きるということ」(累計12万PV)等、2014年からWEB天狼院書店で連載中のブログ「川代ノート」が人気を得る。天狼院書店で働く傍ら、ライターとしても活動中。

❏メディア出演・記事執筆歴:マガジンハウス『Hanako』/日経BP『日経おとなのOFF』/西日本リビング新聞社『リビング福岡』 /日本歯科新聞社『アポロニア21』/講談社『現代ビジネス』/ダイヤモンド社『ダイヤモンド・オンライン』ほか。2019年1月〜2019年6月、出版業界紙『新文化』にてコラム連載。2017年1月、NHK Eテレ『人生デザインU-29』(30分ドキュメンタリー番組)に、「書店店長・ライター」の主人公として出演。

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2021-02-01 | Posted in チーム天狼院, 川代ノート, 記事

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