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メディアグランプリ

寒い日に読む兄弟物語


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:益田和則(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
「お兄さんがいらっしゃるんでしょ。兄弟ってどんな感じですか?」
と聞かれても、私には、兄との関係を端的に説明することができません。
私と兄について書いたこの物語は、「兄弟の関係は、言葉で説明できる以上のものがある」ということを、言いたいがために書いたのかもしれません。
――――
 
私には、3歳年上の兄がいる。
小学校に上がる前までは、いつも兄の後をついて歩いていた。したがって、近所の子供たちと遊ぶ時も、兄の友達と遊ぶことが多かった。そんな時、小さい私は兄にとって足手まといであった。したがって、兄の友達の前では、私は兄に邪険にされることが多かった。しかし、夕暮れになり、二人きりで家に帰る時、その分やさしく埋め合わせをしてくれた。
 
兄は、私にとって、万能の神のようであった。
何でも、兄のやることを見よう見まねでやっていた。野球を始めたのも、兄がやっていたからだ。兄が、右打ちなので、左利きの私もそれをまねて、右打ちにしていた。野球とはずっと付き合ってきたが、結局大人になっても、左投げ右打ちの変わり者で通した。
 
それがいい例であると思うが、私自身、気が付いていることもあるし、気が付いてないこともあると思うが、小さい頃の兄の影響が、今の私の中に色濃く反映されているのだろうと、ふと、思ったりする。
 
その頃の私の兄に対する想いを、象徴的に表している出来事があった。
薄暗くなるまで遊んだあと、兄とふたりで駄菓子屋の前で、お菓子を食べながら話をしていた。すると、知らないおじさんが、
「お前たち仲いいなあ、兄弟かい?」
兄が、「うん」とうなずいた。すると、そのおじさんが、
「兄弟が仲いいのは、子供のうちだけだ。今のうち、仲ようしとけ」と、言い捨てて立ち去った。そのおじさんにとって、その言葉はなんの悪気もない、自身の感慨がそのまま口に出たものであろう。
 
しかし、その時の私には、とても恐ろしい言葉として響いた。
「そんなことがあっていいのか。そんなこと、絶対にありえない!」
私は、心の中で叫んだ。
私の中では、兄との生活が、ずうっとずうっと続くように思っていた。兄との関係性が、不変のものであると考えていた。いや、もっと正確に言うと、幼い私には当然のことであるが、その時の兄との関係の先にあるものに考えが及ばなかった……。
 
帰り道、一生懸命、おじさんの言葉を否定しようと試みたが、子供ながらに、『否定しきれない真実の匂い』を嗅ぎ取っていたのかもしれない。
 
小学校に入り、私も同学年の友達ができ、兄と遊ぶ機会が少しずつ減少していった。そして、兄が中学生になり、今度は、私が入れ替わりで中学生になり、時がたつにつれ、加速度的に兄と話をすることが少なくなっていった。
 
そのうち、ご多分に漏れず、私にも反抗期が訪れた。それは、親や社会に向けられただけでなく、兄にも向けられた。小さい頃は、全知全能に思えた兄が、優柔不断に思えてきてそれが我慢ならなかった。偉大な存在であった兄が、普通の人間になることが許せなかったのかもしれない。
 
人当たりが良く、両親にもやさしく、自分を前に出さない兄を、私は、『凡庸』と受け取った。
 
私は、兄のようになりたくないと思った。私は、『凡庸』であることを、とことん嫌った。
私は親元を離れ、東京の大学に入りそのまま就職した。心が赴くままに生きてきた。
 
兄は地元で就職をし、ずっと両親と暮らしていた。さすがに私も社会人になった頃には、兄に対するわだかまりもなくなっていた。『今まで勝手気ままにやりたいことをやれて来たのは、兄が両親と仲良く暮らしてくれているおかげだ』ということも理解し、心の中で兄に感謝していた。しかしながら、たまに帰省しても、他人行儀な簡単な言葉を交わすだけで、どうしても、兄との距離感を縮めることができなかった。
 
私は、帰省するたびに、幼い頃に聞いたあのおじさんの、『兄弟、仲がいいのは、子供のうちだけだ』という言葉が、呪いの言葉のようによみがえってきた。
 
気が付くと、お互いすでに五十を過ぎていた。
冬の晴れた日、病気を患っていた私の妻が亡くなった。私の両親は年老いて上京するのが難しかったので、代表して兄がお葬式のために来てくれた。兄は、私と違って初めて会った人でも、にこにこと楽しくお話ができる人である。ぶっきらぼうな喪主の私に代わって、お通夜に集まってくれた人とも、一晩中、親しく話をしてくれていた。
 
意外であったが、妻が亡くなった時、わたしは、妻の死をしっかりと受け止めることができた。通夜や葬式の時も、涙を流すことはなかった。それは、たぶん妻が不治の病と宣告されて亡くなるまでに時間があり、少しずつ私の中に覚悟が生まれていたのが一因だと思う。しかしそれ以上に、妻は亡くなったけれども、肉体はまだ棺の中に横たわっているし、魂もまだ、私の周りに存在しているという想いがあったからだと思う。妻の死をまだ現実のものとして受け止めていなかったのだと思う。
 
そして、妻が、いよいよ焼却炉の中に入っていき、鉄の扉が閉められ、バーナーの炎で焼かれ始めた。
 
私は、人目をはばからず、慟哭した。
 
気が付くと、そこに兄が立っていた。
兄は、私を中庭に連れて行った。私は、力なく兄と向かい合ってすわった。兄は、いつものようにタバコを吸い始めた。私は、妻が癌と知らされた時に、たばこを絶っていたが、兄から、一本、タバコをもらって一緒に吸った。そして、もう一本、ゆっくりとタバコをくゆらせた。
ただただ、兄と一緒に、いたかった。
 
そのとき、お互い、ぽつぽつとしゃべったが、何をしゃべったか覚えていない。
ただ、その時の兄のまなざしは、しっかりと覚えている。
幼い頃、兄の友達と遊んだ後、帰り道にやさしく私を慰めてくれた時の、穏やかなまなざしで私を包んでくれていた。私は、長い月日を経たのちに、やっと、兄に心を委ねることができたのだ。
 
もし、あの時に戻り、あのおじさんが『兄弟、仲がいいのは、子供のうちだけだ』と言ったなら、やっと私は、それに答えられる気がするのだ。
 
「兄弟を、軽々しく語るな!」と。
 
たいせつな人への想いは、朽ち果てることなく、心の奥で、再び芽吹く時を待っている。
 
 
 
 
***
 
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2019-12-06 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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