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2020に伝えたい1964

1964年の新語・流行語はこれだ《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 

「あんたは、また観られるかも知れないけど、私には、もう二度と無いんだからね!」
と、テレビでアニメを観たがる5歳の私を、30歳の母はそうたしなめた。1964(昭和34)年の東京オリンピックを、テレビ観戦したかったのだ。
そんな母は、現在86歳。二度目の東京オリンピックは、間違えなく迎えることだろう。『鉄人28号』や『8マン』を観損ねた私は、完全に母に騙されたことになる。
 
もし、1964年当時に現在の‘新語・流行語大賞’が存在していたならば、間違いなく、『俺についてこい』『東京の魔女』『回転レシーブ』が入選したことだろう。それらは全て、オリンピック東京大会で初めて正式採用されたバレーボールの、日本女子チームに関する言葉だからだ。
 
今ではすっかり、メジャー競技となって、中学校の部活動でもよく行われているバレーボールだが、1964年当時は、知る人が少ないマイナー競技だった。私はたまたま、母が部活経験者だったので、オリンピック前から観る機会が有った。
そもそも、バレーボールは英語で綴ると“volleyball”で、そのまま発音すると‘ボレーボール’となる筈だ。ボレーボールの方が、バウンドさせずにボールを相手コートに返す競技なのだから、より理に叶う気がする。誰が呼び始めたのか不明で、今となってはバレーボールの和名が『排球』であること位しか調べ様が無い。
 
バレーボールは、オリンピック東京大会で初めて採用されたのだが、日本国内ではほとんど知られていない競技だったらしい。それでも、オリンピック前になると、女子バレーボールチームが『東洋の魔女』と呼ばれて、欧米の先進国から恐れられていたことが、ニュース等で流れ始めて国中に知れ渡るようになった。“魔女”という表現は、日本語にすると少々物騒な響きとなるが、正確には“魔法使い”といった意味で使われていた様だ。それ程までに、欧米の選手からは恐れられたというより、不思議がられたといった方が正しいかも知れない。
俄然、金メダルの有力競技となったことで、東京オリンピック組織委員会もバレーボールを正式種目に入る様に尽力した。その辺りに苦労は、昨年の大河ドラマ『いだてん』にも描かれていた。
 
日本中にバレーボールが知れ渡るには、もう一つ障害が有った。それは、当時、国内で盛んに部活等に取り入れられていたバレーボールは、日本国内限定で行われていた“9人制バレーボール”だったからだ。私の母が体験したのもこの“9人制”だ。国際ルールで元祖の“6人制バレーボール”と違って、ポジションのローテーションが無くネットも低かった。体格差が出難かったので、参加し易かったのだろう。しかし、どちらかというと、子供用の競技に過ぎなかったのかも知れない。
国内リーグも存在したが、行われていたのは“9人制”だった。バレーボールの国際大会が開かれるようになってから、国内のバレーボールも徐々に“6人制”に移行し始めた。
当時国内のトップチームは、紡績や精密機械といった細かい作業を必要とする工場に存在していた。それは、細かい作業に向く女性作業員のレクリエーションとして発祥したからだ。しかも、そういった産業は、荒廃した戦後経済を支えた産業であり、行政も全面的にバックアップしていたのだ。
そんな福利厚生施設を持っていたのが、大日本紡績という会社だった。1953年、バレーボールの国際化をにらみ、日本各地に在った工場のバレーボールチームを大阪の貝塚工場に集約し、新たに“6人制”のチームとして強化し始めた。そのチームこそが、『東洋の魔女』の母体となる‘日紡貝塚’(現・ユニチカフェニックス)だ。
 
日紡貝塚は、日本各地から有力選手を集める一方、社員であった大松博文氏を監督に据える。後に、『俺についてこい』で有名になる、徹底したスパルタ練習で知られる監督だ。その徹底ぶりは凄まじく、もし現代で同様の練習を行なったとしたら、間違いなく‘パワハラ’‘セクハラ’で訴えられたことだろう。あまりに厳しい練習で、選手が監督に食って掛かる映像が残されている位だ。
そんな、日紡貝塚の選手を中心とする日本女子代表チームは、大松氏が監督の兼任したこともあり、国際試合で連戦連勝をとげた。そして遂に、1962年の第4回バレーボール女子世界選手権を制し、『東洋の魔女』と呼ばれる様になる。
その強さの根源は、体格で劣る日本チームを大松監督により徹底的に鍛え上げられた、レシーブ力によるものだった。
 
バレーボールが、オリンピック東京大会に正式種目に決まると、日本代表女子チームには、新たな問題が持ち上がった。長年同じチームが勝ち進むと、中心となるベテラン選手が残ってしまうものだ。『東洋の魔女』の中でも、キャプテンの河西昌枝選手は30歳(オリンピック当時)を迎えてしまうのだ。それでなくとも、女性の平均初婚年齢が20代前半だった当時のことだ。
「婚期を遅くして迄、オリンピックに出るのか」
「大事な青春を無駄にして」
「監督の独善だ」
といった、勝手な意見が飛び交った。現代で言うところの‘炎上’だ。
しかし、この問題は、河西選手の意志で現役を続けることとなる。大松監督の、
「俺についてこい」
 
の、問いに対し、
 
「金メダルを獲る迄付いて行きます」
 
が、河西選手の答えだった。
金メダルを目指して、練習は激しさを増していった。もっと革新的なレシーブを探していた大松博文監督は、赤ん坊のおもちゃ‘起き上がりこぼし’と柔道の受け身を参考に『回転レシーブ』を開発する。これなら、身体を投げ出してレシーブした後直ぐに起き上がることが出来るので、ダイレクトでボールを返されても、十分に対応出来る守備だった。
 
これは余談だが、『東京の魔女』の結婚や交際に関して、こんな話が残っている。
河西昌枝選手は、東京オリンピックの翌年、2歳年上で長身の自衛隊員と結婚した。媒酌人を務めたのは、現役の総理大臣・佐藤栄作夫妻だった。現役の総理大臣が仲人をする等、前代未聞・空前絶後のことだ。このことにより、河西選手の結婚は、日本中が注目するものとなり、ニュースでも取り上げられた。私も結婚式の映像を、テレビで観た記憶が有る。
ところがだ、首相が仲人を務めたことで、二人を紹介したと認識されているが、少し事実と違うらしい。お相手となった自衛隊員は、当時としては珍しく180cmを超す長身だった。バレ―ボール選手なら当然だが、河西選手の身長は当時では大変珍しい174cm。見た目的には、御似合いの長身同士のカップルだった。そんな長身の自衛隊員は、オリンピックの開会式要員に集められていた。
数十年後、オリンピックを特集するテレビ番組がった。歴代のメダリストたちが集められていた。河西選手を始め、数人の『東洋の魔女』も久々に姿を現した。
MC役の芸人が、
「選手村で、恋愛が生まれたりしませんか?」
と、ボケた質問をした。ほとんどの選手が、
「そんな余裕なんてありません」
と、否定したり、
「外国の選手に、声を掛けられた。一緒に写真を撮った人もいる」
と、意味深な発言をしていた。女子選手の中で、最年長と思われる河西選手にマイクが向けられると、
「選手村の中では、絶対ありませんね。もし、逢うのなら外に出ますよ。そういうことは、見えない所でするもの」
と、真面目な顔で答えた。
横に居たチームメイトの谷田選手は、思わず驚いたような表情になり、左手で口を抑え、右手で河西選手の肩を叩いた。どうやら、河西選手は、オリンピック期間中にもかかわらず、外出してデートしていた様だ。
その事から、河西選手は後に結婚する長身の自衛隊員と、オリンピックの開会式前後に知り合い、大会中にもデートしていたと推測されるのだ。当時の女子選手も、かなり進んでいた様だ。
 
もう一人、セッターの松村勝美選手には、もっと都市伝説的エピソードが有る。
以前、この連載でマラソンの円谷幸吉選手が、自死による急逝したことを記した。そこで、自死の原因が、国民からのプレッシャーや、円谷選手独特の真面目な性格によるものと言われているが、盟友の君原健二選手によると、恋人との結婚を反対されたことが原因だったとも記した。
その、円谷選手が結婚を約束していた相手というのが、松村選手というものだった。ただこれは、完全な噂に過ぎなかったらしい。君原選手によると、
「松村選手は、円谷君よりかなり背が高いよ。それに、結婚を約束していた恋人は、東京オリンピックよりかなり前から付き合っていたらしいよ」
とのことだった。
しかし、松村選手と円谷選手が親しかったのは事実で、円谷選手が急逝した葬儀には、松村選手と河西選手(夫が自衛隊員)が列席していた。そして、最近になって円谷選手の御実家で、遺品の中から相当数の松村選手からの手紙が発見された。二人は、付き合ってはいなかったものの、相当親しく、かなり濃い内容の相談もしていたのだ。
 
オリンピック史上初めて、東京大会から正式種目となった女子バレーボールは、6か国で争われた。順調に日程を重ね、予想通り、日本とソビエト連邦が勝ち続けた。特に、ソビエト連邦は、1セットも落とさずストレート勝ちを収め続けて、金メダルを掛けた最終日の日本戦を迎えた。
一方の『東洋の魔女』は、ソビエト連邦戦の4日前、銅メダルを獲得することになるポーランド相手に、1セット落としてしまう。しかも、ソビエト連邦は日程の関係上、1日多い中5日で日本戦に臨んできた。
日本中の観衆は、日本が勝つと信じつつも、一抹の不安を感じていた。
 
1964(昭和39)年10月23日、決勝戦の会場となった駒澤オリンピック公園総合運動場体育館は、超満員の観衆で膨れ上がった。テレビで視聴した国民も多く、その視聴率は66.8%! 現在でも、テレビのスポーツ中継では歴代1位の数字だ。
他のオリンピック競技に比べて、特に知られている競技では無かったのにこの注目度合いは、異常と言える程だった。
私も、母の解説を聞きながら、テレビで試合に見入っていた。
日本対ソビエト連邦の金メダルを懸けた試合は、男子の5試合が行われた後に始まった。金曜日の夜7時は回っていたと思う。
コートに現れたソビエト連邦の選手達は、明らかに『東洋の魔女』より大柄で、練習で放つスパイクが、コートの跳ね返り大きな音と共にバウンドしていた。他の国からは、真っ赤なユニフォームから『赤い旋風』と呼ばれていた。
「これで、果たして日本は勝てるのだろうか」
5歳の私は、大柄なソビエト連邦の選手達を見て、思わず怖くなった。
 
「レフリーの笛が鳴って、日本、松村のサーブです」
NHKの鈴木文弥アナウンサーの実況で、試合は静かに始まった。ソビエト連邦の高い打点の強烈なスパイクを、『東洋の魔女』達は次々と身体を投げ出し回転レシーブで拾い、巧みに返していった。
第一セットは、接戦になったが15対11で『東洋の魔女』が取った。日本のポイントが続くと、腰を折るようなタイミングでソビエト連邦の監督がタイムアウトを取るので、私は少しイライラした。
第二セットは、やや一方的に15対8で『東洋の魔女』連取した。
そして第三セット。『東洋の魔女』が、良いペースで滑り出した。14対9と、日本リードでマッチポイントを迎えた瞬間、ソビエト連邦の監督が、タイムアウトを取った。しばしの空白の後、再開した試合は流れが変わった。
『赤い旋風』がジリジリと追い上げ、スコアは14対13と『東洋の魔女』のリードは、わずか1ポイントとなった。
「このまま逆転され、敗けてしなうのでは」
私は、実を固くして心細くなってきた。それ程までに、ソビエト連邦の選手は大きく強そうに見えていた。それより、
「長い試合だなぁ」
と、感じていた。
それもそのはず、当時のバレーボールは、現行の‘ラリーポイント制’ではなく‘サイドアウト制’で行われていたのだった。ラリーポイント制は、テニスや卓球と同じく、サーブ権が無くともポイントを取ることが出来る。しかし、サイドアウト制は、別名サーブポイント制といい、サーブ権が有る時しか得点出来ない。延々とサイドアウト(サーブ権のやり取り)が繰り返されるのだ。
 
「5回目のマッチポイントです」
14対13のままサイドアウトが繰り返される試合に、鈴木文弥アナウンサーの声も力がこもってきた。それでも、試合は決まらなかった。
再度、『東洋の魔女』にサーブ権が回ってくると、鈴木アナウンサーは有名な、
「6回目のマッチポイント。サーバーはサウスポーの宮本」
そして、
「金メダルポイントです」
という、名実況を残すことになる。
試合はそこで、ソビエト連邦選手のミス(ロスチナ選手のオーバーネット)で終了する。
コートの『東洋の魔女』達は、コートの中央に集まり歓喜の輪を作った。
満員の観客は、大歓声でそれを讃えた。
私を含めたテレビ観戦の観衆は、それぞれの形で喜んだことだろう。
それもそのはず、この金メダルは女子選手としては1936年のベルリン大会で、前畑秀子選手(ガンバレ! 前畑)が獲得して以来28年振りのものだった。しかも、男女を通じて日本初の団体球技での金メダルだったのだ。
 
私は、テレビカメラが金メダルを獲得し歓喜する『東洋の魔女』達を離れ、ベンチで一人ポツンと座っている大松博文監督を映し出した瞬間を記憶している。
画面に映る大松監督は、大会以前の鬼の形相から、ホッとしたというより、どこか寂しげに見えていた。悲しげでもあった。笑顔も涙も無かったからだ。
日本中の歓喜の中で、たった一人、魂が抜けた抜け殻の様にも見えていた。
 
オリンピック東京大会の後、大松博文氏は参議院議員を務めた。
『俺についてこい』のイメージを残したまま、1978年に心筋梗塞を患い亡くなった。享年57歳。
大松氏を見舞いに訪れ、御自宅前で訃報を知った河西昌枝さんの、信じられないといった表情が印象的だった。
 
『東洋の魔女』のキャプテンを務めた河西昌枝さん。結婚し中村昌枝さんとなった。2004年のオリンピックアテネ大会の折、バレーボールチームの団長として、選手と共に入場行進に参加した。2013年に脳出血で亡くなった。享年80歳。
同い年の私の母の予言を、代わって下さった様でなんだか申し訳ない。
 
大松博文監督と河西昌枝キャプテンは、『東洋の魔女』ではなくなってしまった今年のオリンピック日本女子チームに、どんな声援を贈って下さることだろう。

 
 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE編集部公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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