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メディアグランプリ

知識が感情をもつとき


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:石川玲子(ライティング・ゼミ集中コース)
 
 
5歳の息子がいなくなった。
それに気がついたのは、息子が庭で遊び出してから20分ほどたった頃だった。保育園から帰宅した後、庭で遊ぶと言う息子。その日は特に用事もなかったし、家の中で進めたい仕事があったので「いいよ。好きに遊びな」と、私は息子を庭に残して家に入ったのだ。いつものように自由に遊び回って満足したら勝手に戻ってくるだろう。そう思っていた。それが甘かった。
家の中の仕事をはじめてしばらくたった頃、ふと違和感を覚えた。静かすぎる。農村にあるわが家の庭は広い。庭の端まで行けば、遊ぶ音は聞こえない。それでもその日は何か、ぽっかりと穴が空いたような静寂が庭にあった。
いやな予感に駆られつつ、窓から顔を出して呼んでみる。
答えはない。
庭に出る。
土の上にシャベルが転がっている。
水道の下に濡れたプラスチックじょうろが落ちている。
遊んでいた形跡はあるのに、息子の姿がない。
庭木の影にも、小屋の後ろにも息子の姿がない。
背中がひんやりとしてくる。連れ去りという言葉が頭をよぎる。こんなのんきな田舎で、そんなことがあってたまるか。色々な可能性を思い浮かべながら小屋の中を覗きこんで、気がついた。息子の自転車がない。ということは、おそらく息子は自分の意志で私に黙って遊びに出かけたのだ。よりによって夕方の交通量も増える時間帯、自分の血の気が引く音が聞こえた気がした。私は家の中にいる娘に留守番を頼んで無我夢中で家を飛び出した。
 
結論からいうと息子は無事だった。勝手に友達の家まで行って遊び、満足したら帰宅した。私はといえば町内の息子が行きそうな場所をめぐり、知り合いの顔を見つけては「息子を見なかったか?」とたずねてまわり、これでダメなら警察に駆け込むしか……と悲壮な覚悟で一旦家に戻り、そしてリビングでのん気におやつをかじる息子の姿を見つけた。
そのときに私の身体を突き抜けていった脱力感は、とてもではないが一言では言い表せない。
 
子育て中、とりわけ男児を育てている親の間では、しばしば「あるある」として語られる子供の失踪事件。正直に白状すると、私はあの瞬間まで、まさかそんなことが本当に起こるとは思っていなかった。奔放な少年の姿を知識として知ってはいても、現実味のある感情としては、そんな少年の姿は「知らなかった」のだ。
 
この感覚は、子供を持つよりもずっと前に感じたことがある。生まれて初めて海外旅行でアメリカに行ったときだ。アメリカという国の姿は、ドラマや映画、ガイドブックを通して知っていた。けれども、高校の体育館にフロアの高さからはじまる階段状の観客席を見たとき、高速道路を走るバスの窓からスラムを垣間見たとき、映画で見たようなバス停や消火栓を見たとき。「あ、あれは本当だったんだ」と、それまではぼんやりとした夢想のようだった知識が、急に実体をもって目の前に現れる経験をたくさんした。
とりわけ鮮烈だったのは、英語が本当に通じるという体験だった。学校の勉強で英語は学んでいた。外国人の先生が学校に招かれてきて、先生とひとこと、ふたこと自由に話す機会もあった。海外映画のフレーズを耳にし、洋楽を歌いもした。それでもそれらの体験は自分にとって、あくまで「日本」というかごの中から、学生という繭を通して触れているものに過ぎなかった。
「ハロー! ハワーユー?」と聞かれれば「アイムファイン、サンキュー」と答える。ただテストの紙面で正解を求めるだけの知識にすぎなかった。
しかし空港の売店で、現地の高校で、私のなけなしの知識をつなぎ合わせて絞り出した英語に、相手が反応してくれた。学校に招かれてきた外国人の先生のように、予定調和ではない会話。
「コーラとスプライト、どっちがいい?」
「うーん、コーラをください」
そんな程度のかんたんな会話だ。それでも教科書で学んだ英語という言語が、実際にそこにあると、私ははじめて実感した。ただの定型句だった「サンキュー」が「ありがとう」に変わった瞬間だった。
 
子育ては海外旅行に似ていると思う。巷には多くの育児書があふれていて、子育てに関する経験談は、リアルにもネットにもたくさんある。育児をする上で必要な知識として取り入れることもあるし、面白おかしいネタは一種のエンターテインメントとしても消費される。けれども実際に経験してみるまで、知識には感情が伴わない。
生後6か月ころから乳歯が生えるという知識は本でも得られる。けれども、まっさらだった歯茎に白く光る乳歯を見つけたときの感情は、そこにはない。子どもが熱を出したときに熱性けいれんを起こす場合があるという知識があっても、実際に真っ青な顔で震える子どもを目の当たりにした恐怖はそこにはない。定型句の「サンキュー」が相手の笑顔を引き出して、はじめてそれが「ありがとう」という意味だったと実感するように、知識が経験に変わる瞬間、知識は感情を持つのだと私は思う。
子育ても海外旅行も、今まで経験したことがなかった経験の連続だ。もしも子育ての終わりを、子どもが成人する18歳だと定義するならば、私の子育てはまだ道半ばにも至っていない。10日間の旅行ならば、3日目くらいだ。これから先、私はいったいどんな感情に出会うのだろう。海外旅行で新しい景色に出会うのを心待ちにするように、私はそれを楽しみにしている。
 
 
 
 
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2020-11-06 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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