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卒業式の後の猛烈なさびしさは、ここから来てたのか。 《三宅のはんなり京だより》


 

卒業式があった。
大学の卒業式だ。
4年間、いろんなことがあったけれど、本当に楽しかった。大変なこともあったけど、基本的には嬉しいことばかり覚えてる。それはひとえに、私がたくさんの人に恵まれたからだ。人に恵まれた、ありきたりな言葉だけど、それが一番の幸福だった。

だからこそ、私は戸惑った。
―――あれ、私、さびしい。
卒業式の翌日、自分がそう感じてたことに。

最初は「皆が卒業するから、別れがさびしいのか」と思った。
私は大学院に行く。就職して京都を離れる友達が多い。だから、今まで会えてたみんなと当たり前に会えなくなるのがさびしいのか、と。
でも、違う気がした。
なんだろう。単に、みんなとの別れがさびしい、って訳じゃないのだ。
何がこんなに、猛烈にさびしいんやろう。
そう思ったとき、今まで感じたことのなかった感情に出会った。
備忘録なのか伝えたいからなのか分からないけど、今、そのことを書きたくて書いている。

 

サークルもバイトも学部も、たくさんいい友達がいた。尊敬できる友達に出会えた。
大学時代、いろんな友達と時間を過ごした。
卒業式では、その友達みんなと写真を撮って、いろんなとこに顔を出して、飲み会をはしごした。既に京都に住居のない友達を泊めて、朝、じゃあねって見送った。
そして、ぽつりと思った。

さびしい。

別れがさびしいのはもちろんなんだけど。それだけじゃない気がして、でもその感情がどこから来るのかわからなくて、昨日撮った写真を見直した。
それからFacebookに写真をあげて、アルバムをつくって、写真を何度も見返した。
何がこんなに、さびしいんやろう。
そう思いながら写真を見て、何度も何度も、さびしさの輪郭をなぞった。

写真の中で、友達が、袴やスーツに包まれて笑う。
この子のこういうところが大好きだったなぁ、
この子にああ言われたの傷ついたなぁ、
この子がこうしてくれたことに救われたんよなぁ、
この子のこういうとこは好きやけどこういうとこは参ったなぁ、
たくさんの言葉が胸の中に浮かんでは消え、浮かんでは消え、
そして、あ、と気づくことがあった。

「あ、私、こんな風に思ってたこと全部、みんなに伝えられないまま、みんなと別れてゆくんやな」と思ったのだ。

 

本音は、いつだっていびつだ。
きれいに整ってなくて、どろどろに歪んでいる。
変に熱意があふれすぎたり、じゃりっとした擦れが取れなかったり、妙にセンチメンタルだったり、うまくすくえないどろどろの煮込みスープみたいだ。
想いは過剰で、繊細で、いらないものばかり残る。

だから人に伝えるのは、そのうち、うまく綺麗なお玉ですくえる部分だけになる。
とっても浅い、表面の部分をさらさらっとすくうだけのことも多い。
思ってもいないことを、その場に合わせて言うことだってある。
できれば飾りをつけて、飲み込みやすい言葉にしようと思う。
そして、それ以外の、私のどろどろの煮込みスープは、心の奥底にこびりついて、残る。

そんなどろどろの本音を、そのまま皆に出すなんてしたくない。
ちゃんとコーティングされたおいしい部分を、お客様には出したい。
私は、そう思ってコミュニケーションというものをしてきたのだと思う。(もちろん、その余裕がなくなってお世話になった友達は何人かいるけれど)
みんなに本音を言うのはこわい、というより、好きじゃない。本音はおいしくないから。

だけど、そうすると、伝えられない言葉ばかり手元に残る。
過剰だけど、めんどくさいけど、本当は言いたかった言葉たち。
それらが誰かのもとに届かずに、自分の心だけに残る。

その残った言葉たちを見つめたときに気づいた、多くの友達を、「コミュニケーションのお客様」としか思ってなかった自分。
分かってもらうのは難しいからと、諦めて、勝手に友達を客扱いして、心の中に本音を残してばかりいた自分。
要は、そんな自分が、
なによりさびしいのだ。

私は、その伝えたかった言葉をすべて相手に伝えればよかった、とは思わない。
良いものであれ悪いものであれ、相手からの想いの分量が重いと、受け取った側は苦労する。それに見合ったものを返すのは、面倒だと思う。誰かを傷つけることもあるだろう。
だからできれば軽やかに、オープンに伝えたい。

だけど、じゃあどうしたらいいの。

――それはきっと、その時その時、感じたことを伝えられずに、心の中に溜めてゆくから、ほんとの想いは余計に重く苦くなるんじゃないだろうか。
伝えられない言葉ばかり残ると、本音のどろどろスープはますます粘着質になるし、おいしくない。腐るのだ。想いが。
溜めると、本音はどんどん、重くなる。

でもそうじゃなくて、その時その時、できるだけ、自分の感情や想いと通じ合って。そのうえで相手に伝えられる言葉を取り出せたなら。
相手に合わせるでもなく、相手をおそれるでもなく、相手に媚びるでもなく。
相手をそのまんま前に置いて、私から言葉を発せられたなら。
相手と自分とのあいだにある言葉に、向き合えたなら。

そしたら、少しは手元に残るさびしさが違うものになるんじゃないか、と思うのだ。

 

私は私であるしかないから、自分のどろどろの本音とこれからも付き合うしかない。
だけど、どろどろが嫌だからって、そこから綺麗な部分をすくってばかりじゃ、結局どろどろが凝り固まってしまうのだろう。
そして目の前にいる人も、見えなくなってゆく。
その時、「さびしい」というどうしようもない本音になって、それはわめきだす。
わめく段階までほうっておくのはよくないなぁ……と、ここまで来て、しみじみ感じる。

見栄っ張りで、きれいな部分しか認められない部分もあるけれど。
できるだけ自分の本音や本当と通じ合って、
そのうえで、誰かと通じ合いたい。
そうやってはじめて、誰かと、本当に安心できる関係を築けるんじゃないか。
誰かと、というより、みんなと。
私は今、大学時代に対して、少しばかりの苦い後悔と、ぽつりとしたさびしさを覚えながら、そう思っている。

 

もうすぐ、春がやって来る。
新しい春がはじまる。
また新しい誰かと出会って、新しいさびしさと私は出会う。
そのさびしさが、今とはまた違ったものになっているように。
少しずつでも、前進しつつ、おたまで深くスープをすくってこう、と今、思う。

 


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