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週刊READING LIFE vol.55

合気の達人・塩田剛三は、なぜ変人なのか《 週刊READING LIFE Vol.55 「変人伝」〜変だけど最高に面白い人物図鑑〜》


記事:千葉とうしろう(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

塩田剛三について話そうと思う。塩田剛三は、合気道の達人である。合気道とは、100年ちょっと前、大正時代に植芝盛平という人が作った武道である。それまでにあった体術や武器術に、精神性の鍛錬を加えて作られた、比較的新しい武道で、塩田剛三とは植芝盛平の弟子にあたる人物である。
 
塩田剛三という人物の見た目は、一言でいうなら「小柄」である。身長154センチメートルで体重は46キログラム。写真もインターネット上にあるが、その印象は「近所のおじいちゃん」である。この塩田剛三について話す前に、格闘技における体格の優位性について話そう。
 
格闘技とは強さを比べるスポーツであるが、格闘技がうまい人間が純粋に「強い」のかというと、そうではない。「強い」の定義が曖昧で、人、地域、団体ごとに定義が分かれているからだ。ゆえに「強い人間」を決めようとすると、狭義から広義まで色々な方法が存在することになる。一般的な感覚でいえば、格闘技がうまい人間が、「強い人間」ではあるが、狭義でいえば、腕相撲(アームレスリングと呼ぶ)チャンピオンも「強い人」だし、早食い大食い(フードファイトと呼ぶ)のチャンピオンも「強い人」に分類されるだろう。ごくごく限られた範囲での強さとはいえ、強さには変わりないのだ 
 
反対に広義で「強さ」を捉えると、強いのはアメリカ大統領や、あるいはウォーレンバフェット、さらにはビルゲイツ、ということになる。世界的な権威者や、大金持ちや、影響力のある人間。これらの人を「負かす」のは容易なことではない。範囲を広く取れば、これらの人が「強い人」に分類されるのだ。
 
このように、「強さ」といっても狭義から広義まで色々ある。現実的な路線でいけば、やはり格闘技のチャンピオンが一般的な感覚での「強い人」に一番近いだろう。ボクシングチャンピオンとか、柔道の金メダリストとか、プロレスチャンピオンとか。
 
格闘技とは強さを比べるスポーツであるが、強さとは曖昧であるため、狭義から広義まで色々ある。確かに格闘技のチャンピオンは「強い人」に間違いないが、それでも「強さ」というものの一側面を表したものでしかないのだ。
 
さて、その一般的に「強い人」を決める格闘技であるが。実に細かく分かれている。何が分かれているかというと、「階級が」である。階級とは、選手の体重別によって分けられる階層である。体重の重い人は重い人どうしで、体重の軽い人は軽い人どうしで試合をするのだが、この分類が実に細かく分けられているのだ。
 
柔道男子は、60キロ、66キロ、73キロ、81キロ、90キロ、100キロごとに、階級が分かれている。60キロとは「60キロ以下級」という意味であり、その階級では体重が60キロまでの選手しか試合に出ることができない。
 
ボクシングはもっと細かく分けられており、50.80キロ、52.16キロ、53.52キロ、55.34キロ、57.15キロ、58.97キロ……などとなっている。団体によって多少の違いはあるが、格闘技というものが、体重に対して非常にナーバスになっていることがわかってもらえただろうか。
 
どうして格闘技がこんなにも体重に対して神経質になるのか。だいたいこれでは、階級ごとに複数のチャンピオンが出てきてしまうではないか。柔道でいえば、60キロ級のチャンピオン、66キロ級のチャンピオン、73キロ級のチャンピオン、という具合に。
 
選手が階級をまたいで試合をすることは基本的にない。軽い階級の選手が重い階級の選手と試合をすることはない。階級ごとに一番強い者、つまりチャンピオンを決めるのだ。階級ごとに複数のチャンピオンができてしまう。でもこれでいいのだ。これが格闘技というものなのだ。
 
というのも、格闘技において試合を決める一番の要因は、体重だからだ。基本的に格闘技の勝因には、3つの要因が必要だといわれている。心、技、体、である。心とは精神的な強さであって人間性である。技とは技の習熟度であって、いかに練習したか。体とは体つきのことであり、重いほうが有利という、つまりは体重である。格闘技を理想的に語るなら、この3つはどれか一つでも欠けては強さには繋がらない。この3つがバランスよく合わさって、「強さ」が構成されるのである。が、現実的にはそうでもない。
 
3つの要因のうちで、一番必要ないのは、心である。精神的にバカでヤンチャな人間でも強くなれる。強さにおいて、人間性は重要視されない。確かに理想でいえば人間的にできた者が強ければ格好もつくのだろうが、現実では精神的に弱くても、たとえば犯罪者でも格闘技ではのし上がれる。
 
次に必要ないものは、技である。技は練習とも言える。技を体が覚えるには反復練習が必要だし、練習には何より量が必要だ。何回も繰り返し練習して技を体が覚えれば、格闘技では優位に立てる。たとえ相手が精神的にバカでも、練習量が相手を上回れば、試合でも優位に立てる。ただし、体重という要因を除けば、である。
 
3つの要因の中で一番の割合をしめるのは、体である。体つきが良ければ、格闘技は強いのだ。体重が重ければ格闘技は強いのだ。体は、心をも、技をも、はるかに凌駕する。だからこその階級なのだ。だからこそ体重別にチャンピオンを決めるのだ。もしも階級がなく、どの体重の人、どの体格の人も混ざり合って試合をすることができたら、たちまち格闘技はデブ人間コンテスト、もしくは高身長人間コンテストになるだろう。いかに体の重さや高さを競うかのスポーツになってしまう。しかも、体重の軽い人間は、体重の重い人間からコテンパンにのされて命さえ危うい状態になる。格闘技に階級が存在するということは、格闘技が体重別にチャンピオンを決めるということは、格闘技の品位を保つこと、それと、体重の軽い者を守り保護する、という意味なのだ。
 
その格闘技の中で、塩田剛三は異色の存在である。というのも、彼はどう見ても小柄だからだ。だが、その強さは折り紙つきである。武勇伝はいくつかあるが、たとえばロバート・ケネディ大統領のボディーガードをほふった時の話は、格闘技の世界では有名である。1962年、日本を訪れた当時のアメリカ大統領であるケネディ大統領は、塩田(当時47歳)の道場である養神館を訪ねた。塩田の演舞に興味と、それとおそらく疑いを持った大統領は、自分のボディーガードを相手に演舞をすることを、塩田に申し出る。
 
ちなみに格闘技において演舞とは、皆んなの前で決められた型通りに動いて技を見せるものである。格闘技は相手を傷つける技であるため、これをガチで練習しようとすると、技によっては相手を致命傷に追いやってしまうものもある。練習で相手に致命傷を負わせてはいけないので、決められた型通りに動くことで、相手を致命傷に至らせることなく技を伝授するのだ。
 
ケネディ大統領の申し出は急なものであり、事前に打ち合わせなどなかった。塩田の演舞を見た大統領が、思いつきで口走ったのだ。当然、指示されたボディーガードも「え? 俺がですか?」的なきょとんとした表情である。
 
というのも、合気道に試合というものはなく、お互いが決められた型通りに練習する、という形式が通例となっているのだ。攻め手と受け手に分かれ、例えば受け手が攻め手の右手を掴んだところからスタート。攻め手は、掴まれた右手から相手の腕を左手で引き離して、相手を床に伏せさせるまでを一連動作で練習するのだ。受け手も、相手が自分の腕を引き離して床に伏せさせようとすることをわかっているから、阿吽の呼吸で受け身をとるし、攻め手が技を掛けやすいようにと自然と体が動いてしまうものなのだ。
 
ゆえに型の練習を見ていると、「それって本当に効いているの? 痛いの? 嘘なんじゃないの?」という疑問が湧いてくるのだ。特に合気道のような、見た目では分かりにくい微妙な筋肉の緊張具合や反射神経を利用する格闘技だと、疑いの眼差しは強くなる。実際に練習をしていても、相手が型通りに動いてくれるものだから、技を掛けても本当に効いているのかどうか、やっている方もわからなくなるのだ。
 
ケネディ大統領のボディーガードも、その辺は頭に浮かんだに違いない。「え? 俺がですか?」という戸惑いの後に「急に言われたんで、型なんて知らないですよ? やっちゃっていいんですか?」という不敵さを持っていたと思う。だいたい、演舞の相手を指名されたのは、ボディーガードなのだ。大統領自身がやるわけではないので、外交的な気遣いは無用である。アメリカ人の、仕事に忠実な腕力自慢が、東洋の小さいおじいちゃんに対しては何の温情もあるまい。空気を読まずに打ちのめしたところで、ボディーガードにとっては何のデメリットもないのだ。
 
演舞の相手を指名されたボディーガードは上着を脱いで、前に歩み出る。周りには観衆やカメラ。お互いに半歩の距離で、正座で向かい合う。おそらく塩田剛三は「手を握りなさい」とでも言って、手を握らせたのだろう。塩田が差し出した両手を、ボディーガードが両手で掴んだとたん、そのボディーガードは、想像しがたい動きをする。ボディーガードの腰が後方に引っ張られたように一瞬浮いたかと思うと、今度はうつ伏せで床に這いつくばったのだ。塩田の手を握ったまま両腕を伸ばし、足を伸ばし。とてもとてもそれは相手に温情をかけている動きではない。「このおじいちゃんに花を持たせてやろう」という動きではない。そうせざるを得ないのだ。痛くて、恐怖で、筋肉が反応して、反射神経が警笛を発して。全身が「床にはいつくばざるを得ない」と判断するのだ。
 
私も、このような手合いをやったことがある。決して詳しいわけではないが、一つは痛みだ。痛くて、その痛みから逃れるために、逃げ道を体が探そうとする。そうすると、床にはいつくばざるを得なくなるのだ。それからもう一つは、恐怖だ。腕を攻め手から掴まれたとして、その腕が「折れてしまう」という恐怖が襲ってくるのだ。その恐怖から逃れ、折られないように体をひねったりして逃げようとすると、床にはいつくばざるを得ないのだ。迷い込んだように、自分の体の行き先に床があるのだ。
 
ケネディ大統領のボディーガードも、おそらくそんな感覚だったに違いない。握った手から伝わってくる痛みや恐怖。それから逃れようとして、体が選んだ行動は、「床にはいつくばる」だったのだろう。というか、逃げ道を探しているうちに、体は「床にはいつくばる」という行き止まりに行き着いてしまったのかもしれない。
 
自分のボディーガードが床にはいつくばる姿を見た大統領は、後にこの時の演舞を回想してこう言っている。「私のボディーガードは、まるでピンを刺されたクモのように、いとも簡単に床に張り付けられてしまった」と。
 
格闘技において合気道や演舞というのは、疑いとの戦いでもある。伝授しようとしても、なかなか信じてもらえない。上手く伝わらなく、継承しにくい。技の衰退に拍車がかかり、本物を身につけることができなくなり、余計に演舞が疑わしくなる。見ている方は疑い、実際にやっている方も「効いている」という手ごたえをイマイチ感じない。そんな曖昧な合気道という格闘技の中で、一つだけハッキリと、「これは疑いようがない!」と輝く石が、塩田なのだ。
 
ちなみに、塩田は、こんな言葉を残している。弟子から「合気道で一番強い技は何ですか? それを教えてください」と言われ、「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と言っているのだ。なんとも深い、そして現実的な言葉ではないか。合気道の達人、塩田剛三は、決して空想の世界、やらせの中で演舞をしているのではなく、現実の中で合気道をしているのだ。塩田のこの言葉はおそらく、路上のリアルを知った者からしか出てこない。私は警察官をしていた時期があるが、常に相手と仲良くなることだけを考えていた。
 
というのも、相手を無理に職務質問したり、有無を言わさずに逮捕するようなイメージのある警察官だが、職務質問や逮捕など、相手を自分の思い通りに動かそうとすると、結局は相手と仲良くなるのが一番理想的なのだ。楽なのだ。こちらのやりたいことを100パーセントできるのだ。職務質問も逮捕も、相手があっての仕事である。相手も人間だし、どんな動きをするか予想などできないし、その場その場の状況もある。警察官に不利な状況という場合も多分にある。
 
そんな中で、確実に職務を遂行しようとすると、どうしても自分たちの意思だけではどうにもならないことがあり、そんな時は相手を利用しなければならないのだ。相手を無理に動かすよりも、相手がその気になってくれる方が、余裕があるし、痛みもないし、何より気持ちがいい。相手を打ちのめして「ドヤっ!」とするよりも、一緒に肩を組んで笑いながら歩いていくほうが、爽快で、いい気分じゃないか。たとえ行き先が警察署だったとしても。
 
塩田の映像はユーチューブにもたくさんあり、その多くは演舞だ。演舞は「それってやらせなんじゃないの?」と思われる要素が多分にあるが、それはそう見えているだけであって、塩田の技、合気、強さは本物であると信じたい。
 
「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」
 
この言葉が全てを物語っている。身長154センチメートルで体重は46キログラム。体格や体重で強さが決まる格闘技という世界において、小柄なおじいちゃんの塩田剛三は、「それってやらせなんじゃないの?」という興味を抱かせるとともに、「やっぱりガチかも」と恐怖をも抱かせる変人なのである。

 
 
 
 

◻︎ライタープロフィール
千葉とうしろう(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

宮城県生まれ。警察に就職するも、建前優先の官僚主義に嫌気がさし、10数年勤めた後に組織から離れてフリーランスへ。子どもの非行問題やコミュニケーションギャップ解消法について、独自の視点から発信。何気なく受けた天狼院書店スピードライティングゼミで、書くことの解放感に目覚める。

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2019-10-28 | Posted in 週刊READING LIFE vol.55

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