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週刊READING LIFE vol.154

三十代転職ルーキー、いざ参る!《週刊READING LIFE Vol.154 人生、一度きり》


2022/1/10/公開
記事:緒方愛実(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
カチャ、カチャカチャ、カチャカチャカチャカチャ
 
私の手の上の、ウェッジウッドの、上品なコーヒーカップが小刻みに震えている。その振動で、カップの中になみなみと注がれたコーヒーもゆらゆら波打つ。
「お、お待たせ、いたし、ました」
テーブルの上、お客様のお手元を目指し、進むカップ。
全身の神経を指先に注ぐ私。その姿を、カウンターの向こうからマスターが、そして、お客様方が、息を飲んで見守る。
あと、もう少し、そう思った瞬間だった。
 
カチャ チャポ
 
「あ」
 
テーブルに一部が着地した瞬間、大きく波打った琥珀は、ソーサーをぬらした。同時に、全員の口から言葉が溢れる。
「申し訳ありません、代わりのものお持ちしますね」
硬直する私の手から、マスターがヒョイッと、コーヒーカップセットをスマートにさらって行った。
「すいません、まだこの子入ったばかりなもので」
「も、申し訳ありません!」
マスターの声にかぶせるように、私は頭をペコペコと下げながら、お客様方に声をかけつつ向き直る。
だが、お客様は、ちっとも動じることなく、笑顔で手を振る。
「大丈夫ですよ、そのくらい」
「うんうん、私だって、こぼしちゃうから。大丈夫大丈夫!」
「すいません、ありがとうございます」
今の私を漫画のキャラにしたら、目の中が渦を巻いていることだろう。私は、緊張で目をぐるぐると回しながら、申し訳なさと感謝でプルプルとさらに身体を震わせる。
 
なんて、なんて、やさしいんだ、みなさん。
もしかして、仏様かな?
 
私は、脳内で、そっと合掌した。
 
わたくし、好奇心を原動力に、挑戦を目標に生きる、三十代。
一念発起して、うん年勤めていた会社を退職し、サービス業に返り咲きました。
ただのサービスではございません。
日本一の男が率いる、コーヒーを提供する喫茶店であります。
私はそこで、コーヒーとは、人にサービスするとは、なんたるかを、裸一貫で学んでおります。
 
激動の時代の真っ只中の、約2年間。今までの働き方、考え方が通用しないご時世になった。広告業を生業とする弊社も同じく。主体としていた、広告物の発行だけでは、運営が回らなくなってしまい、新たな分野の業態を取り入れるしかなかった。私は、元々、弊社の発行物と仕事のファンだった。それに惚れ込んで入社したのだ。だが、弊社のベクトルは、私が思い描いていたものから、どんどん離れて行った。私が、長年、一人で運営していた業務を失くすことになった。たくさんのクライアントさんたちに助けられ、たくさんのご縁を繋いだ、大切な業務だった。
次にしんどかったのは、人間関係だった。世の中、たくさんの人間がいて、個性がある。それを否定するつもりも、コントロールするつもりもなかった。だが、相手側は違った。どうしても、一緒に仕事をすることどころか、過ごすことさえ難しいと感じる方がいた。仕方がないこと、気にしてはいけない。そう、受け流そうとしたが、無理だった。相手側は、自身の主張を押し通そう、自分の抱えた仕事を達成することに夢中で、周りのことを見ていないようだった。同じ空間にいるだけで、私の額と背に脂汗が伝う。恐怖と緊張でどうにかなってしまいそうだった。
そんな溺れるような日々を、救ってくれたのが、喫茶店とコーヒーだった。
「おはようございます」
早朝に家を出て、訪れる喫茶店。そこで、マスターやスタッフさんと、あいさつを交わすだけでも心が洗われるようだった。クラシックが流れる早朝の喫茶、そこで楽しむ、オリジナルブレンドのコーヒーとモーニングメニュー。それらを摂取している時間、私は、自身を取り戻せた。私にとって喫茶とコーヒーは、今にもガス欠になりそうな心身に注がれる、生きる力をくれるエネルギーだった。
 
私も、人間らしくいながら、仕事をして生きていたい。
 
カウンターで、朗らかに会話をしているマスターと常連さん。そして、ゆっくりと抽出されていくコーヒー。どこか、俗世から離れたような、穏やかな空間。静かにコーヒーと向き合うマスターが、僧侶のように見えてきた。
まだ、間に合うのではないだろうか、そう思った。
私も、修行をし直せば、人生を、自分自身を取り戻せるのではないだろうか。
転職、の二文字がふんわりと、コーヒーの湯気と共に立ち昇った気がした。
だが、私はすぐに正気に戻った。
三十代を過ぎて、異業種に転職するなんて、無謀過ぎるのではないかと思い直したのだ。
だが、喫茶店から離れても、夢の欠片を見つけてしまう。
とある作家さんは、喫茶店で働きながら、二足のわらじで仕事をしている。
喫茶店とコーヒーを愛し、コーヒーを傍らに置いて執筆する古今東西の文豪たち。
本を開けば、喫茶店やコーヒーを題材にしたエピソードが飛び出す。
そして、実家の近所に、将来、広い土地が自由になるかもしれないという。「水も野菜もおいしいし、気候が良い土地だし。民宿とか、喫茶店とかしたらいいよね」身内とぼんやりと、そんな話をした。うっかりと、「そこで私がおいしいコーヒー提供できたらいいよなぁ」などと妄想もしてしまった。
 
無理だ、でもやりたい、いやいや正気じゃない。でも、コーヒーがなければ、私は正気じゃいられない。どうせするなら、とことん勉強したい。
いやいや、でも。
 
自宅で、夜、布団に潜り込むと、理性の私と、野心の私が殴り合いを脳内で展開する。脳みその回路が焼き切れるんじゃないか、そう思うくらい、悩み続けた。
往生際悪く、何件も喫茶店を偵察した。年功の友人たちにも相談した。転職や仕事、人生の向き合い方の本を何十冊も読んだ。
そんな時、チャンスが舞い降りる。
 
なんと、近所の喫茶店が求人募集をしているという。そこのマスターは、コーヒーのとある分野で日本一に輝いた方だ。私は、これまで、何度かお客としてそこのコーヒーを飲んでいた。コーヒーの味はもちろんのこと、マスターとスタッフの方の対応がすてきで、雰囲気も抜群にすばらしい店だった。
飛び込むなら、ここしかない。日本一の男の弟子として、コーヒーと接客の勉強ができる。
私の頭上に光が射した。
 
これは、目に見えない流れが後押ししてくれている。これを逃す手はない。
 
実際に会った方、多くの著者の方々に後押しされ、私は、人生の賭けに出ることにした。
 
「こりゃまた、異業種だね。いいの?」
カウンターの向こう、マスターが私と履歴書を見比べ、苦笑いする。私は、スーツを纏った身体を緊張で、キュッと縮こませた。だが、ひるまず、微笑む。
「ですが、人生一度きりですから。したいことをしないと、もったいないと思いませんか?」
一瞬、マスターの目が丸くなる。ふむ、と顎に手を当てる。
「確かに、それはあるね。でも、君の雰囲気なら、老舗の◯◯とかも合うんじゃない?」
口端を上げて、マスターが意地悪な質問をする。それに、私は間髪入れずかじりつく。
「でも、私はここで働きたいんです。この店のコーヒーと、働くみなさんに惚れ込んでいますから」
「そうか」
マスターが、おもしろいものを見るような目を私に向ける。野心で目をギラギラさせている私と、不敵な表情のマスターが笑みを交わす。
こうして、私たちは、共謀者となった。
 
「緒方さーん、◯◯して!」
「はい!」
「ちょっと、どこ行くの? まず、こっち!」
「失礼しました!」
憧れの喫茶店での仕事、初日。
私は、目をぐるぐるさせながら、動き回っていた。
修行僧のように、己と他者の会話、を望んでいた。だが、かなり想像と違った。
チャンピオンの店ということは、おいしいコーヒーが出るということ。私が居心地が良いと思ったということは、他にも同じように思った人がたくさん居るということだ。
つまり、この店は人気店なのだ。そして、年末。コーヒー豆は、クリスマスや正月の、気軽なプレゼント、贈答品としての需要も高まる。12月は、師走。僧侶が駆け回るくらい忙しい、大繁忙期である。しんみり座禅を組んでの禅僧の修行、というよりは、野山を駆け巡る大阿闍梨のアグレッシブな修行だった。
そこに、初日から投入された、三十代のルーキー。サービス業の経験があると言っても、ヤングな学生時代の昔話である。
はっきり言って、私は足手まといでしかない。
 
「これして!」
「はい!」
「違う違う、ちゃんと指示聞いて」
「はい、失礼しました!」
 
指示が飛べば、脊髄反射的に元気よく返事。そして、次から次へと仕事に手を伸ばそうとする。だが、その大部分は、的はずれな対応なことが多かった。
戦場で、旗を背負い法螺貝を吹きながら、味方陣地に突っ込むダメ足軽のようなものだ。やる気と威勢だけは一番の猪突猛進の新人は、何度も呼び戻される。
 
動かなければ、でも失敗するわけにはいかない。あ、あれもしないと、これもしないと。
 
過度の緊張と、プレッシャーで過呼吸気味になっている私をマスターが何度も諭す。
 
「落ち着いて。今のあなたはできなくて当たり前。先輩とお客様の話をよく聞いて、何を求めているか、深呼吸して考えて。みんなに教えてもらう気持ちでいなさい」
「は、はい」
 
流石、日本一の男である。どんなに店が忙しくても、新人がポカをしても、表面上には、動揺をまったく見せない。
私が失敗をしても、怒鳴ることなんて一度もなかった。ただゆっくりと私に語りかける。
「だれにでも失敗はある。たくさん失敗して良いから。落ち着いて、君は大人なんだから、ちゃんとできる」
 
しょぼしょぼと落ち込みながら、コーヒーカップを洗う。当初は、それくらいしか、うまくできる仕事はなかった。
と、カウンター越し、私の目の前のダンディなお客様が、こちらをじっと見ていることに気がついた。
私は、内心ダラダラと冷や汗を流す。
 
私、何か粗相をしたんだ。ついに怒鳴られるかもしれない。
 
震える手で、カップを洗う。
「ごちそうさま」
「あ、ありがとうございます」
伝票を持って、ダンディが立ち上がった。すかさず、頭を下げてお礼を言うと、彼は私をまっすぐに見つめる。
「君、新人さん?」
「うぁ、はい!」
ダンディの端正な顔がほころぶ。
「表情筋が固まってるよ、笑顔笑顔! がんばってね!」
「は、はい、ありがとうございます!」
ハッハッハッ、快活に笑いながら、ダンディは手をひらりと振って、奥様と店を出られた。私は、彼らの姿が見えなくなるまで、深く頭を下げていた。
 
「緒方さんって、緊張しやすいですか?」
「はい、すいません」
「そうなんだ。私もですよ」
ドタバタと、細々やらかす私を、辛抱強く助けて導いてくれる、二十代と三十代の先輩方。
 
「仕事には慣れた?」
「冬だから、手の潤いも大事にね」
「へぇ、コーヒー屋で働くのはじめてなの? がんばんなね」
支えて見守ってくださる、常連のみなさん。
 
「視野を広く持って。落ち着いて、はじめはゆっくり、でも確実に。お客様が何を求めているのか、会話を楽しむ気持ちで対応しなさい。こちらからコーヒーのことをお教えしたり、逆に教わったり。時には、何がいいか一緒に考えるんだよ」
そして、野心と好奇心で生きているような私を、拾って育てようと決めてくださった、マスター。
 
多くの方に、さまざまなことを教わり、支えられている。目に見えない財産を、私は日々いただいている。
少しづつ、闇雲に走るだけだった足軽は、辺りを冷静に見渡す余裕が出てきた。だが、まだまだ、頭上には、立派な鎧兜ではなく、でっかい若葉マークをつけている。勝手に、一人で転んでいて、冷静さと経験値が圧倒的に少ない。
 
みなさんに、私が返せるようになるのは、いつになるだろうか。気が遠のくこともある。
まず、目指すのは、心の初心者マークを外せるようになること。そして、マスターと先輩に、仕事を安心して任せられる仕事人になる。そして、コーヒー好きのみなさんに負けない熱いコーヒー語りを楽しみ、悩みに寄り添えるコーヒーマイスターを目指そう。
 
人生一度きりだから。
その言葉を胸に、脳みそが溶けるくらいに悩んだ末に飛び込んだ、夢の世界。
これから、私の人生がどう進んで行くのかは、だれにもわからない。
例え、自分の店を持たずに別の道に進んで、趣味でコーヒーを振る舞っていたとしても、それもまた人生。
喫茶店とコーヒーが繋いでくれた、現在進行系で得ている経験と、かけがえのないみなさんとの出会いは、私の人生を豊かにする糧になる。
さぁ、深呼吸しよう。
カップを持つ手が震えるなら、筋トレでカバーだ。
自信がないなら、本と動画で勉強だ。
すばらしいお手本は、目の前にいる。先輩のコーヒーマイスターたちから、どんどん技術を盗もう。
喫茶店の扉を開ければ、そこは戦場。コーヒー豆が焙煎される芳しい香りが立ち昇り、数多の伝令が飛び交い、コーヒーカップと人々が行き交う。
初心者マークでも臆せず、前へ前へと進んで、挑み続ける。
 
三十代の野心家ルーキー、いざ参る!!
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
緒方 愛実(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

福岡県出身。喫茶・モーニング好きがこうじて、2021年、「喫茶・コーヒーマイスター見習い」となる。週末は、カメラ、ドイツ語、タロット占い、マヤ暦アドバイザーなどの多彩な特技・資格を持つ「よろず屋フォト・ライター」となる。貪欲な好奇心とハプニング体質を武器に、笑顔と癒しを届けることをよろこびに活動をしている。

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2022-01-05 | Posted in 週刊READING LIFE vol.154

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