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週刊READING LIFE vol.163

曲がり角の先の光へ《週刊READING LIFE Vol.163 忘れられないあの人》


2022/03/28/公開
記事:河瀬佳代子(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
久しぶりに日暮里に降りる機会があった。
ポートレート撮影をするためだ。
 
日暮里駅の西口を出てすぐ目の前にある階段を登りながら、JRの線路に沿って道なりに歩いていくと谷中霊園の大きな通りに出る。墓地といいながらも道幅は広く整備されていて、地元の人が散策をしたり、車まで通れたりする。
「ほんとうに、駅からすぐのところにお墓があるんですね」
「桜まであるんですね」
「墓地って意外と桜の名所で、花見に来る人も意外と多いんですよ」
道の両側には桜が植わっていた。もうじきここが立派な桜並木になる。つぼみの下の花びらたちが待ち切れないように、木々の先にうっすらと桃色のもやがかかっているかのようだった。墓地なのににぎやかですよねと感心するモデルさんと一緒に、撮影ポイントを探しながら私たちは歩いた。
 
朝倉彫塑館の前を通ってそのまま北へ向かうと、夕焼けだんだんの大きな通りへ出る。もしかして、これは次第にあの場所へ近づいてるのではないか。私はこの街がどうして記憶の中にあるのかを、少しずつ思い出していた。
(ああ、この通りだ、ここを曲がって行ったよね……)
大通りを右に曲がる路地を見つけた時、それは確信に変わり、古い記憶が蘇った。
 
それはもう30年以上前の話になる。
高校生だった私は、週に1回、日暮里に通っていた。そこに塾があったからだ。
塾といっても、いわゆる大学受験のための大手の進学塾ではない。何故なら私は大学受験はせず、附属高校から内部進学する予定だったから。正確に言えばそこは「数ⅡB・数Ⅲと物理の補習」だけのために通っていた塾だった。
 
受験もしないのに塾に通うなんておかしくないか? そう思う人もいることだろう。しかし内部進学するには普段の学校の成績が一定以上でないと自分が希望する学科が選べないのだった。
内部進学者が多い高校は受験用の勉強をしないので生徒が遊ぶ。そのため内部進学には基準を設けていた。授業は文系・理系は分けずに行い、赤点があれば容赦なく留年させる。高3の2学期の成績を基準にして、成績順に上位から希望の学科に入れる決まりだった。
私は根っからの文系人間だった。数字を見ただけで何も考えたくなかったし、物理の公式なんて何言ってるのか全く分からなかった。数学と物理の時間は寝てばかりいたような気がしている。そんな有様だったのでその2つの成績はとても悪かった。
(なんで文系なのに、物理なんてやらないといけないの。微分積分なんてこれから先の人生で、一瞬たりとも使うことはないのに)
いつもそう思いながら授業を受けていたけど、そういうシステムなのだから仕方がない。理系の子だって古文漢文をやらされているのと同じように、文系だって微分積分をやらされる高校なのだった。10段階の成績で、3以下だと赤点になる。高校2年の2学期の私の物理の成績は4で、留年ランプに赤信号がついていた。親もそのことを気にして、試験前はやいのやいのと言われることが多くなったけど、かといって私が数学や物理を急激に理解できるわけでもなかった。わかんないものは、わからんのよ。2学期の成績が出たあと、鬱々としていた私に、母が1つの知らせを持ってきた。
 
「ねえ、このままだと、数学と物理、どうしようもないでしょう?」
「まあね」
「それで、いろいろ調べてたら、知り合いからいい話があったのよ」
「いい話?」
母が「いい話があるのよ」という時はたいていつまらない話のことが多いけど一応聞く。
「あのね、物理と数学だけ、やってくれる塾があるんですって」
「へえ、どんなところ?」
「日暮里なんだけど、すごく頭のいい大学生の兄弟がいて、1つからでも教科を教えてくれるんだって。教え方もとてもうまくて、みんな生徒さんは合格してるって。あなたの学校の授業の範囲内の補習だって引き受けてくれるんじゃないの? 大学受験の塾じゃそんなことやってくれないでしょう?」
「ふうん」
私は気のない返事をした。またうちの母が、いろいろ先回りして決めててよくわかんないんだけど。
「このままじゃ赤点でしょう? そうしたら大学だってスムーズに進学できないかもしれないじゃない。今頑張っておけばどうにかなるかもしれないから、説明だけでも聞きにいってみない?」
そう言われてしまうと返す言葉もなかった。しぶしぶだが、母と一緒にその塾に行ってみることにした。
 
日暮里の駅から5分ほど歩いた場所にそのお宅はあった。普通の一軒家の自宅に生徒を呼んで、大学生の兄弟は勉強を教えていた。
「学校の授業で及第点を取れるようにすればいいんですよね。今日、教科書やプリントなどはお持ちですか?」
応対に出たのはしっかりとした学生だった。ご長男ということだった。国立大学に通っているそうだ。
「はい、これですけど」
私は授業で使っているプリントを見せた。
「そうしたら、うちの弟が物理と数学を教えられると思うので呼んできます。……おーい、ちーちゃん! こないだ話していた、附属高校の子だよ」
ちーちゃんと呼ばれた次男がやってきて、プリントを見ながら説明を始めた。
「このくらいだったら、そんなに難しくはないですし、赤点にならずに済むんじゃないでしょうか」
週に1回くらいだったらどうですか? と訊かれ、他にも生徒さんを抱えていて実績もあるということだし、物腰も落ち着いているしいいんじゃない? ということで、母も私も納得して通うことになった。
 
通塾は学校の帰りにそのまま立ち寄る形になった。
「入試ではないので、学校の授業の基本的なことを理解して、学校のテストで及第点を取る」という明確なゴールがあるので、そこに向かって淡々と指導が始まった。基本的なことだけど、私の文系な脳みそにはなかなか入っていかず、どうしてこの公式がこうなるのか? から始まって懇切丁寧に、次男のちーちゃんは教えてくれた。ちーちゃんは名前を言えば日本中誰でも知っている難関私立大学の理工学部に通っていた。
「ここはね、この公式を使うんだよ。ここに代入しましょう」
何回訊いてもわからない、私のような生徒を持つと本当に大変だけど、ちーちゃんが少しずつ教えてくれることでだんだん私も解けるようになってきた。数学と物理に関しては試験前に予想問題も出ていたので、それを繰り返し解いていった。
その塾の話を、同じ高校の友人にした。彼女は内部進学ではなく、外部の大学に受験することを考えていた子だった。
「今、物理と数学だけ塾に行ってるんだ」
「へえ。そんなのだけ、しかも内部進学用に教えてくれるところなんてあるの?」
「あるんだよ。内部進学だけじゃなくて、普通に受験する人用にももちろん教えてるよ。1教科からでもいいんだって」
「そうなんだ。私、今行っている塾があまり良くないから、どうしようかと思ってたんだよね。すごくそこ気になるなあ」
「よかったら紹介しようか?」
そんな会話があって、彼女もその塾に通うことになった。私とは違う曜日だったけど、気になる教科だけ集中して教えてもらいたいという希望だった。
私は内部進学用の勉強をして、彼女は一般受験用の勉強をするために日暮里に通った。私の成績は抜群によくなったわけではなかったけど、留年しないラインを無事に通過してどうにか希望の学科に入れることになり、高3の12月で無事に退塾した。彼女は彼女で受験をしたけど、残念ながら希望の大学の合格は取れず浪人生となった。卒業しても、日暮里の塾にはたぶんピンポイントで通うんじゃないかなと彼女は言って、私たちは高校を卒業していった。
 
大学に入学すると、新入生を勧誘するサークルの人たちが、キャンパスのあちこちに見られた。いかにも新入生という感じの私と友人たちは、4月のキャンパスを歩けばサークルの見学の声をかけられた。
「あれ? ねえ、そうだよね?」
たくさんチラシを配られながら歩いていた私たちを呼び止めたのは、日暮里でお世話になったちーちゃんだった。
「あ! ちーちゃん! どうしてここに?」
「サークルなんだよ。ご入学おめでとうございます」
ちーちゃんはそういってお祝いの言葉を言ってくれた。
「ありがとう。まだ塾はやっているの?」
「やってるよ。友達も通ってるよ」
「そうなんだ」
「無事に女子大生になれてよかったね」
「そうだね。ちーちゃんのおかげです。ありがとうございました」
あまり時間がなかったので、そこを立ち去らないといけなかった。
「ごめんね、オリエンテーションあるから」
「そしたら、これあげる。よかったらサークル見に来てよ」
ちーちゃんは私にサークルのチラシを渡してくれた。テニスかなにかのサークルだった。
「ありがとう。また連絡するね」
そう言って私たちは別れた。そして結局、それがちーちゃんと話した最後になった。
 
そこから2年後のことだった。
日暮里の塾を紹介した友人から連絡があった。
「ねえ、大変。落ち着いて、よく聞いて。……ちーちゃんが、亡くなったの」
「えっ?」
「亡くなったのよ。それで、お葬式があるんだって」
「なんなのそれ。……どうして? なんで?」
「春休みにサーフィンをしていて、水難事故で亡くなったんだって」
「嘘でしょう? 信じられない。そんなこと」
「私だって信じられないけど、そう連絡があったのよ。私はお葬式に行くけど、どうする?」
「ちょっと考えさせて。わからない」
いきなりの訃報に、あまりにも驚いて、私はとっさには判断できなくなっていた。
あの頭脳明晰な、若いちーちゃんが死ぬなんて。絶対信じられない。でも友人がそう言ってきているのだから嘘ではないだろう。母にも伝えて、塾を紹介した人にも調べてもらったら、どうやらそれは本当のことだった。
あの人が、あの若さで死ぬなんて。どうして? どうして?
それなりに懇意にしていた人がある時突然いなくなる衝撃は、考えているよりもものすごいものだった。しばらくの間、私は何も考えられなかった。
 
塾に通っていただけの間柄と言ってしまえばそれまでだけど、もしかしたら私は、なんとなくだけどちーちゃんに恋をしていたのかもしれない。でも大学1年の時に最後に話してから連絡すら取らなかったのだから、たぶんそれはとてもいい加減で淡すぎた感情だったのだろう。今となってはよくわからない。しかし彼の死はあまりにも早すぎた。
私はちーちゃんの葬式には行かなかった。もっとちゃんと言うと、行けなかった。ショックがあまりにも大きかったことと、連絡すら取らずブランクが空いたことが理由だった。とても顔なんか出す資格はないと思っていた。
 
あの曲がり角を見つけてしまった時、私の記憶に蘇ったのは、あの頃の景色だった。寺の多い、古めかしい通りを歩いた1年と少しの日々、そして若くして亡くなったちーちゃんのことだった。
 
日暮里の周辺は思いのほか坂が多い。それもなだらかな坂が。ちーちゃんの家に向かう曲がり角を過ぎて、少しだけ坂を上がると夕焼けだんだんの入口が見えた。あの頃から長い時が流れているというのに、ここはいつもと全く変わらずに買い物を楽しむ人、店頭で酒を酌み交わす人、散歩をする人たちが途切れることなく行き交っている。
「光があるうちに、撮影しましょう!」
講師の声がして、私たちは急いで撮影の準備をした。モデルさんが階段の途中に行って、逆光の中、こちらを振り向いた。夕暮れ時は急に冷え込んで、瞬く間に陽が沈んで行く。
「急いでください!」
「こっちに目線下さい!」
シャッターを切りながら、考えていた。永遠に時が止まってしまったちーちゃんがいて、そして私は今こうして生き永らえている。あれから紆余曲折はあったけど、生活をしていて、そして新しいことに挑戦する余裕があることに気がつく。そしてそれはとてつもない贅沢であり、幸せなのだということも。
 
夕刻の曇り空の下、わずかに雲のすき間から弱々しいオレンジ色の光が差し込むと、それを押し頂くかのように私たちはモデルさんに向けて夢中でシャッターを切っていた。この瞬間をひとときも逃すまいとするように。
人生に一度きりの今日という日のこの時間を、この瞬間を、どうしたら最高の状態で残せるのだろうか。一寸先は誰にもわからない。だから生きられなかった人の分まで精一杯生きよう。自分が生きた瞬間を、出会った人を忘れずに、いい記憶のままとどめておこう。ファインダー越しのモデルさんの微笑みが、そう語っているような気がして、なんだか胸がいっぱいになった。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
河瀬佳代子(かわせ かよこ)

「客観的な文章が書けるようになりたくて」2019年8月天狼院書店ライティング・ゼミに参加、2020年3月同ライターズ倶楽部参加。同年9月READING LIFE編集部公認ライター。
言いにくいことを書き切れる人を目指しています。

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2022-03-23 | Posted in 週刊READING LIFE vol.163

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